ローレンス・M・プリンチぺ『サイエンスパレット・科学革命』

ベリーショート更新シリーズ

定番の入門書として知られてる(らしい)OUPのvery short introductionシリーズがサイエンスパレットとして丸善から翻訳されておりますが、これはそんなかの「科学革命」を扱ったもの。

科学者と宗教家の闘争の時代というような19世紀に「発明」された古典的な科学革命観を支持している科学史家というのはもうほとんどいなくて、ニュートンなどの有名な自然哲学者の活動は基本的にキリスト教から推進力を得ていたとか、後期中世の知的発酵が14世紀の凶作やペストの中断のあとで再生したのだとか、そもそも科学革命などなかったよなんてカマす人も現れれば、単一の科学革命という考え方への回帰も起こったりして、ここ2,30年くらいの科学革命期の研究では新しい成果が積み重ねられているもよう。

本書は2011年に原書が出ただけあって、(訳者あとがきによれば)そんな最近の科学革命期の研究をよく反映しているようだ。ちなみに著者は科学革命期を「連続と変化の両方の時代でした」といういいとこ取りな書き方をしている。初期近代の錬金術(alchemy)と化学(chemistry)の未分化な探求を最近の科学史家はキミストリー(chymistry)と呼んで科学史的研究もすすんでるとかも全然しらんかったので勉強になった。コペルニクス的体系に消極的だった神学者が「観測に一致するような計算ができる便利な虚構」として採用した際の文章なんかは科学哲学の実在論争的な視点で読んでみるのも面白い。

ただ登場人物やトピックがガリレオ、ハーヴィ、ニュートンのような定番の有名人およびその活動ばかりでなく、ファン・ヘルモント、カッシーニ、リッチョーリなどややマイナーな名前も多く、最初の一冊!って感じで薦められるかというと微妙なところ。ある程度基本を押さえたらすすむべき一冊って感じでしょうか。

科学革命 (サイエンス・パレット)

科学革命 (サイエンス・パレット)

坂井克之『科学の現場 - 研究者はそこで何をしているのか』

現代科学というと真理を追究して純粋に探求を行っているという一般的なイメージがあるかもしれないが実際はポスト獲得や予算取り、昔からなんとなく続いてる制度など、生臭い要素が絡む営みでもある……という割とよく聞く話は科学史やら科学思想などのオハコであったが本書は自然科学者の手によるもの。

てことはさぞかし科学に有利なように書かれてるんでしょうなぁ……と思われるかもしれないが、かなり正直に現代科学の研究不正の問題や研究者の組織、トップジャーナルが社会情勢に依存することなどが書かれている(一部「それは科学に限らないのでは」という話もあった)。といっても「99パーセントは仮説なのだー」みたいな相対寄りの話には向かわず比較対照、ランダム化、盲検化、エンドポイントの設定など、より信頼のおける研究デザインの基準を明記していて、不確かなところのない研究・純粋な探求心を保ち続けるのはとても難しいがよりよい科学を目指すことは捨てない、というスタンス。

この手の話は科学論科学哲学などでいくらかわかっちゃいたつもりではいたが、そういう分野だともっと抽象的な話だったのでこうして実際の科学者による実体験も交えたエッセイという形で読むとぐっと知識に肉付けがされた感じ?ちなみにラカトシュやクーンといった「有名どころ」の名前も登場して結構好意的に紹介されている。

丁寧で読みやすく、科学の組織の制度の話や研究デザインの話の基本が学べるので新書の感覚でさくさく読める。ちくまプリマ―新書とか岩波ジュニア新書から出てもいいんじゃないかって思ったくらい。
等身大の科学とうまく付き合うためのバランスの取れた好著。

科学の現場:研究者はそこで何をしているのか (河出ブックス)

科学の現場:研究者はそこで何をしているのか (河出ブックス)


そういえば聞いたことある名前だと思ったら7年ぐらい前に『心の脳科学』という新書を読んでたのでした。
著者は神経科学者なので「我々は脳の10%しか使っていない」などの神経神話の批判もちょっと出てくる。

心の脳科学―「わたし」は脳から生まれる (中公新書)

心の脳科学―「わたし」は脳から生まれる (中公新書)

戸田山和久『恐怖の哲学 ホラーで人間を読む』

戸田山さんはよく文体が言及されるけど『交響するコスモス』に載ってるような終始キリッとした文章もあれば、雑誌の『科学哲学』あたりの論文の、元々持ってるユーモアが滲み出てる程度の文章もあるわけで、本書はどうなのかというと一般向けの新書ということでかなり砕けた調子なので軽いノリが苦手な人は注意な。あまり経験的探究に頼らないタイプの哲学アプローチに対して一部挑発的なところもあるのだが、(戸田山さんのような)この手の人達は「もう少し中立的な書き方を!」みたいなお行儀のいいこと言っても火に油を注ぐだけだったりするので、よほどの記述でなければ「偏った人もよのなかには少数は必要だよな」とかなんとか思ってクールに受け流すのがいいと思う(適当)。まあこの著者さんはバランスの取れたフェアな書き方やろうと思えば非常にうまくやれる人なんですけどね。やりたがらないだけで。

本書の内容をざっくりいうと情動の哲学と分析美学という2つのホットな分野*1を下敷きに、そもそも恐怖とは?というところから始まり、やがて、「なぜ存在しないと分かっているものを怖がことができるのか?」「どのようにしてヒトはホラー映画なんてものを楽しめるのか?」を考えていく…というもので詳しくは山下ゆさんとかスゴ本さんのブログを読んでいただきたいが、情動の哲学も分析美学も旬なトピックとはいえ、新書ということを考えると、少数を除いて明るくない読者がほとんどだろう。私といえば、"The Cambridge Handbook of Cognitive Science"の、『恐怖の哲学』でも依拠している俊英哲学者ジェシープリンツが担当した情動の章に目を通していたので「これ進○ゼミでやったやつだ!」となる箇所も一部あったとはいえ、ほとんど上澄みをすくった程度に過ぎず、ただただおとなしく議論を追いかけていくしかなかったのだが、著者も認めるように、哲学ジャンルとしての美学については「本書に取り組むまで敬して遠ざけていた」らしいので美学や精神分析や神経科学といった分野に詳しい方で専門用語や理論について「この用語について誤解があるぞ」という声はあると思う。さいわい煙に巻くような書き方はしてないので(新書なので記述がユルいということはあるが)間違いを発見しやすく、誤りを指摘されれば素直に応じるおっさんなのでどんどん指摘すればよいかと(本人に届けば、だが)。とはいえ新書というスタイルからしてどちらかというと紹介メインなわけで、いつもながら充実の参考文献から美学や情動の哲学など関心を持った分野の本格的な議論にすすんでいけばよいと思う。著者もそれを望んでいることでしょう。

本書を当たり障りのない入門書と比べて読み物として面白くしている点は、そういった旬のトピックを誰でもなじみのある映画という対象に応用してみせ、哲学者の本らしく、過去の見解について反例を指摘したり補足したりしつつ立てた問いにきっちり答える作業をわかりやすく実際にやってみせてるところ。参考文献にないので憶測になるけれども、デネットがハーレーやアダムズJrと組んで著した『ヒトはなぜ笑うのか』(勁草書房2015)のホラー版みたいなことをやろうとしたんじゃないかと思う。
精神分析理論やローズマリー・ジャクソンの文学研究といった過去の見解を検討して、長所や適用できない例を示していく構成も少し似ている。

「問いに答える説明がどういう条件を満たしていなければならないか」をいくつかに分けて明確化して、「これでは(1)(2)は満たしているが(3)を満たしていない」とか「この仮説だとホラー以外のジャンルも含まれてしまうじゃん」とか「"ホラーが怖いがゆえに魅力的なのはなぜか"に答えることを目指しているのに"ホラーが怖いにもかかわらず魅力的なのはなぜか"にズレてしまっている」*2といったように過去の見解に反例をあげたりしながら、最初は大掴みな仮説から、徐々にはみ出す部分を削ったりズレを修正したりと、問いに過不足なく答える方法が読みながら身についていく、という実践的な本になっている。

こう書くと「ジャンル一般に当てはまる説明など薄っぺらい」という声が聞こえてきそうだ。あわててつけくわえると著者は、本書がやっているようなこととは別に、個別の作品に当てはまる説明というのもあって、そういう説明のほうが、その作品が特定の人を引き付けるのがなぜかをはるかに雄弁に語るということはありそうであり、そうした説明を排除する必要はまったくない、と述べていて、ここは戸田山さんの文芸批評観が伺えて興味深い。

また、新書であることを意識して意図的にやっているんだろうけど、恐怖という情動に絡めて意識の難問や死の形而上学などの一般的な日本人がイメージする哲学っぽい話(これは私がいくつかの本屋の売り場を見てきた経験プラス一種の直観です)を組み込むあたりも退屈させない。

個人的に注目したのは『哲学入門』で伊勢田哲治さんから突っ込まれていた*3、日常概念でもある心理学用語等を日常概念と違ったふうに定義し、それで研究を進めてもその対象についてわかったことになるのか(大意)、という指摘に関する部分。その応答になっているような箇所が第8章で読める。著者は心理学用語が物理学の専門用語(CP対称性とか)なんかと違って日常的体験というルーツから独立できていないことを認める(p371)。たとえば情動は意識的なものだとする人たちは少なくない。しかし本書では「意識を伴わない情動」を認めたい。そこで著者は次のようなケースをあげる*4。飛行機恐怖症の人がいて、飛行機に乗っているときにその人の同僚がリラックスさせようと面白い話をしてくれる。そして面白い話を聞いているうちに恐怖を意識しなくなったがふと自分が飛行機に乗っていることを思い出したときに話を聞いている間中べっとりと冷や汗をかいていたことに気づく……著者はそういった誰にでも伝わるケースや実際の実験をあげて情動という概念を「意識を伴うもの」から「意識を伴わないこともあるもの」へ改定していけばよいという戦略を取るようだ。というか新書でこういうケースや実験を紹介すること自体が戸田山さんの概念改定のひとつの実践なのかもしれない。ちょっと根拠が弱いんじゃないだろうかとかなんとか思っているうちに著者はこの問題自体は深く掘り下げず次章へすすんでしまうが、いつか情動や恐怖に限らず日常概念-科学的概念ギャップの問題にもう少し取り組んだ読み物を読んでみたいと思う。


本書では恐怖・ホラーがテーマだったが、怒りとか嫌悪とか悲しみとか笑い……はデネット達がやってるか。そういった他の情動を映画やら他の文化と絡めて本書と同じようなことをやってみるのも面白いかもしれない。


まとめ
(1)情動の哲学と分析美学という2つの旬な分野およびホラーものについてのこれまでの見解のざっくりとした見取り図が得られるよ(より専門的なところへは参考文献から進んでね)
(2)そういった議論を追いながら立てた問いに過不足なく答える議論の仕方も(ある程度)身につけられるよ

上に出てきたごほん

The Cambridge Handbook of Cognitive Science

The Cambridge Handbook of Cognitive Science

ヒトはなぜ笑うのか

ヒトはなぜ笑うのか

*1:分析美学は新しい学問ではないがここでは日本で最近翻訳や日本人による研究書が出始めていたりする状況を想定している

*2:著者は「にもかかわらず説」がダメと言いたいわけではないが、「ゆえに説」のほうがベターだと考える(p303)

*3:http://blog.livedoor.jp/iseda503/archives/1805752.html

*4:考案したのはプリンツである。

ジョン・サール『「事実」から「当為」を導く議論について』

ジョン・サール言語行為』の第八章『「事実」から「当為」を導く議論について』で
ヒュームにはじまる、事実(である)から当為(べし)を導けないというアレにサールが挑んだおはなし。

最近では自然科学者が自然科学的な知見を援用して政治的な主張をする時にSTS的な考えを持った方がストップをかけるというシチュで「自然主義の誤謬」として持ち出されることが多い印象。

ただサールはisもoughtもありふれた語で、とりたてて倫理学固有の問題ではないと述べている。

野球で盗塁に失敗して審判員が「アウト!」と叫んだとき、「記述的陳述からは私がベンチに戻るべきという評価的陳述を帰結することはできない」と述べて二塁ベースから離れなかったとしたら、誰もがおかしいと感じるだろう。でもこのケースは「約束」なんかと原理的に異なるところはない、てなことをサールは述べている。

そんなサールが事実から当為を導けるとした論証がこちら。

(1)ジョーンズは「スミスさん、あなたに5ドル払うことを私はこの言葉において約束します」という言葉を発した。
(2)ジョーンズはスミスに対して5ドル払うことを約束した。
(3)ジョーンズはスミスに5ドル払う義務を自分に課した。
(4)ジョーンズはスミスに5ドル払う義務がある。
(5)ジョーンズはスミスに5ドルを払うべきである。

サールは古典的な見解の行き詰まりを「構成的規則」というタームの導入とお得意の言語行為を用いて突破しようとする。

サールによれば「約束をするということはある義務を引き受けることである」という構成的規則を介することで、「約束する」という語を発することが言語行為となり、5ドルを払うべきであるという結論に達したことになる(もちろん義務というものが様々な仕方で破棄されることはあり得る。義務の存在は義務を引き受けた時点で保証される。)。

自然科学的知見を援用して政治的・道徳的な主張をしている人がいてどげんかせんといかんかったら「その構成的規則を私は共有してません」とかなんとか言っとけばいいのかもしれない。サール的に考えて。(SK)

構成的規則はいつどのようにして生まれるのか。すでに作られた構成的規則を介するならともかく新しく構成的規則が作られた時問題はなかったのか。
疑問は尽きないが1969年と古いごほんなので、現在はこのサールの見解を乗り越えた見解をさらに乗り越えた見解とかそういう段階に達していることだろうな、ということで「事実→当為」についての議論を知りたいならもっと新しい文献を探すことをおすすめする(じゃあなんで紹介したんだよという突っ込みはナシの方向で)。

言語行為―言語哲学への試論 (双書プロブレーマタ)

言語行為―言語哲学への試論 (双書プロブレーマタ)

松井智子『子どものうそ、大人の皮肉』

手順はじつは非常に簡単だ。まず、いくつかに分ける。もちろん量によっては、ひとつにまとめてしまってもよい。いっぺんにやりすぎないことが大切だ。すぐにどうということはないが、いずれやっかいなことになるかもしれないからだ。間違うと、高くつくこともある。はじめは手順が複雑に思えるかもしれない。だが、すぐに生活の一部としてなじむだろう。

この文章だけを読むと何が書いてあるのかほとんど理解できない。しかしこの文章のタイトルは「洗濯」と言われると同じ文章が俄然わかりやすくなるのではないだろうか。

文脈情報というのは空気みたいなもので似たような経験をしていたり似たような言語履歴をもっている者同士で会話をしていると迅速・自動的に解釈するのでその存在に気づかないが、「何かが足りない」「何かがおかしい」と感じると私達は文脈を推測したり意識的にいくつかの解釈を比べたりということをする。そういう人の性質を利用したのが「○○とかけて××ととく、その心は?」というなぞかけのような言葉遊びだ。

本書はスペルベル&ウィルソンの関連性理論をベースにした語用論の入門書で、大変読みやすく表紙も可愛い感じだが決して説明は手を抜いていないので語用論の最初の一冊にうってつけ。

子どもにあるストーリーを聞かせた後に質問するという実験(実験というのは強い言葉なのでここでは不適切かも)や語用障害の方の言葉使いを手がかりに、伝わる原因・伝わらない原因を探っていく。

[Aは[〜〜〜である]と信じている]

このような心的表象は一次的メタ表象と呼ばれ、発話の理解に不可欠であるとされる。たとえばドラマで泥棒が「宝石を盗んだのは俺じゃない」と言ったとしよう(実際に泥棒をしたものとする)。それがウソだと解釈されたとすると次のような心的表象が作られたと考えられる。

[泥棒は[宝石を盗んだのは自分ではない]と信じていない]

さらにドラマを見ていた人が、泥棒の話を聞いた警官が泥棒の言っていることはウソだと思っている、と思ったとしよう。
ドラマを見ていた人の頭には次のようなメタ表象が形成されていると考えられる。

[警官は[どろぼうは[宝石を盗んだのは自分ではない]と信じていない]と思っている]

このような二次的な心的表象は二次的メタ表象という。

子どもが二次的メタ表象能力を持っているかどうかを調べる、二次の誤信念課題というものがある。他人が思っていること、信じていることを誤解してしまったことがわかるには、二次的メタ表象が必要になるのである。

以下は本書に出てきた二次の信念課題を若干アレンジしたもの。

タカシとミナコは動物園にウルトラマンが来ていると聞いて動物園に行った。
二人はそこでウルトラマンと話をしていたがタカシは用事があって一人で家に帰った。
ミナコが動物園に残っているとそこにマナブがやってきた。
ミナコとマナブがウルトラマンと話しているとウルトラマンは「僕たちはこれからスーパーマーケットに行くよ」と教えてくれた。
ミナコとマナブは家に帰ることにしたがマナブは途中で一人でタカシの家に寄って、ウルトラマンがスーパーマーケットに行ったことを教えてあげた。
そしてタカシはまたウルトラマンに会いに行くと言って出かけた。
ミナコはまたタカシを誘ってウルトラマンを見に行こうと思ってタカシの家に電話をしてみた。
するとタカシのお母さんが出て「タカシはウルトラマンに会いに行くと言って出かけたわよ」と教えてくれた。


さてミナコはタカシがどこに出かけたと思っているでしょう?動物園?スーパーマーケット?

この質問に正しく答えるためには、次のような二次的メタ表象を形成している必要がある。

[ミナコは[タカシが[ウルトラマンは動物園にいる]と思っている]と思っている]

この質問に正しく答えられるようになるのは6歳以降であるらしい(6歳過ぎれば誰でも正解が出せる、という強い主張ではない)。3歳児は電話で話している相手に対して、手もとの絵本を指差して「これ読んで」とか平気で言ったりする。

話はそれるが読みながら心的表象という語にひっかかりを感じる人もいるかもしれないな、と思った。心的表象が構文論的構造なのか分散的なのか、いや表象なんてものを持ち出す必要はないとか、それ自体が認知科学や心理学の哲学などで議論になっているからだ。とりあえず本書では明示的に立場が書かれているわけではないが、古典計算主義寄りなのではないだろうか。


誤解のないような言葉のやり取りをすべし、と無理強いしてくるのではなく、「結局われわれは言葉を使ったやり取りは不可能なのだ」といった(俗流)ポストモダニズムみたいなことを言い出すのでもなく、100パーセントの成功は難しいことを伝えたうえで、その原因については探求可能であり、ある程度誤解は防ぐことができるから悲観的になることはないと教えてくれるあたり大変好感が持てた。

トマセロのジャン・ニコ講義を翻訳している方でもあるんですね(あとがきによれば大学院時代にスペルベル、ウィルソン、トマセロに師事していたそうな)。

コミュニケーションの起源を探る (ジャン・ニコ講義セレクション 7)

コミュニケーションの起源を探る (ジャン・ニコ講義セレクション 7)

『子どものうそ、大人の皮肉』は『コレモ日本語アルカ?』と同じ「そうだったんだ!日本語」シリーズで、なかなか良シリーズといえそう。まあ2冊だけで判断はできないんだが、でもタイトル眺めてるとほかにも面白そうなのがたくさん。

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/028621+/top.html

金水敏『コレモ日本語アルカ? 異人のことばが生まれるとき』

唐突だが次のような話し方を示されたとして

1そうじゃ、わしがしっておるんじゃ
2そうよ、あたくしがぞんじておりますわ
3そや、わてがしってまっせー
4これながいきの薬ある。飲むよろしい。

多くの日本人は1を老人2をお嬢様3を関西人、4を中国人と捉えるのではないだろうか。


このような特定の話し方(語彙、語法、言い回し、声質など)と人物像(性別、年齢・世代、職業・階層、国籍、場面など)とが連想関係として結びつけられ、かつ社会的にその知識が共有されている時の、その話し方のことを役割語という。
役割語には現実の特定の集団の話し方を元にしている場合もあるし「ワレワレハ宇宙人ダ」のようにフィクションで作られたものもある。言語学といえば語とその語が指す対象との関係の研究や、ヒトの生得的な言語能力の研究などがあるが日常言語はこういった要素からも成り立っているのである。

さて本書では『らんま1/2』や『Dr.スランプ』、最近では『銀魂』『ヘタリア』といった作品にも登場する役割語のひとつである「アルヨことば」が歴史的にどのようにして中国人などの外国人話者と結び付けられたのか、小説・漫画や歴史的資料に基づいて検証し、そのルーツを明らかにしていく。

「アルヨことば」が現れる最初の作品は宮沢賢治の『山男の四月』(1921年)であるという。
ここでさらに疑問が沸いてくる。「アルヨことば」は宮沢賢治の創作なのか、なんらかの言語資源を利用して作り出したのか。

著者は資料に基づき「アルヨことば」に先立って幕末〜明治の横浜で発生したピジン=横浜ことばが宮沢賢治の「アルヨことば」の原形だったという見解をとる。

ピジンとは二つ以上の言語が接触する場所で自然発生的に用いられる奇形的な言語のことで、当座の間に合わせのために、相手の言語のわずかな単語や文法をつなぎ合わせて、なんとか用を足そうとする時に生じる「片言」が、社会的にある程度慣習化したものをいう。

ピジンには次のような特徴が現れる。

1.語彙の減少。きわめて限られた単語を使いまわす。従って、一つの単語はいろいろな意味で使われることになる。

2.形態の単純化。活用・屈折といった単語の変化が乏しくなり、一つの形態(例えば終止形)をいろいろな文脈で使いまわす。

3.統語構造の単純化。助詞・助動詞などが乏しくなり、また接続表現も乏しくなって、文を二つ並べたものが修飾、条件、理由、継起など多様な関係を表すといった現象が起こる。

4.外国語の語彙、あるいはピジン独特の語彙が混じる。

5.話者の母語の音声の影響で、音声に訛りが生じる。

『山男の四月』に登場する陳のことばは↑のピジンの特徴に概ね合致している。

『山男の四月』に引き続いて「アルヨことば」が見られるのは坪田譲治の童話作品(1933)、そして田河水泡の『のらくろ』の3部作(1937-8)などが続き、「アルヨことば」は定着期に入る。田河水泡の熱狂的ファンだった手塚治虫石ノ森章太郎の作品にも登場して、80年代以降の展開は皆さんご存知の通り(?)といったところ。最近(2000年代以降)では、「現実ではまったく聞かれない」ことを逆手に取ったギャグとして使われたり、単に「〜ね」語法が用いられるようになっており、「アルヨことば」は衰退期に入っていると著者は述べている。


本書に登場する固有名詞にはよく知っているものが多いこともあって読み物としても面白く、慣れ親しんだキャラクター達も連綿と続く系譜に位置づけられること、そして「言葉は生き物」(比喩)だということを改めて思わされる一冊だった。

エリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ - 表現の自由はどこまで認められるか』

本書ではレイシズムを「皮膚の色、エスニシティ、国籍、あるいは宗教といった特性に基づいた排除や中傷」としている。大事なことなので最初に書きました。

危険なレイシズムを抑え込もうという人達と、積極的にレイシズムを支持する人達あるいはレイシズムを支持するわけではないが自由を根拠にレイシズムの規制に反対する人達がいて、後者の人達がよく言うのが「あっという間に焚書が始まるぞ(byフィリップ・ゴーレイヴィッチ)」とか「ポルポトを見よ」とか。「規制したら団体を地下活動へ向かわせるのではないか」なんてことも言われたりする。

あるいは「どっちもどっちだろ」と言って事足れりな人ね。しかしブライシュは、そうした主張は価値のバランスを「いかに」保つべきかという点については何も述べていない、と手厳しい。

ようは白か黒かではなく程度問題なのであり、言論の自由の範囲について片方の端を「焚書」としてもう片方の端を無政府主義とするスペクトラムのどの位置がベストか歴史的文脈に照らし合わせて適切な結果をもたらすような判断をせねばならないということだ。

この問題に対して本書ではアメリカやイギリスやフランス、ドイツといった国々のレイシズムの歴史的展開についての研究を行い、法や裁判の個別の事例(とその結果どんなことが起こったか)をこれでもかと挙げている。それによると、どうやら自由にミニマルなコストを課すことで反対派のいう「焚書」といった行き過ぎた事態に陥ることなく危険なレイシズムを抑えることは出来そうだよ、とのこと(もちろん他の地域にそのまま適用、というわけにはいかないが)。

読んでて興味深かったのは多くのヨーロッパと比べて、「自由」のイメージが強く、ヘイトスピーチの規制には消極的なアメリカが、人種差別を動機とする犯罪(ヘイトクライム)を規制する立法を行ったのはかなり早かったということだ(順番としてはアメリカ→イギリス→フランス、イタリア→ドイツ)。つまり、アメリカがレイシズムに寛容というのは必ずしも正しくない。


本書の欧米のレイシズムについての歴史的研究と個別事例の数々、そして純然たる倫理学法哲学の研究ほど踏み込んでいるわけではないが(ブライシュは哲学者ではないのでそれは求めすぎというやつである)ロールズやドゥオーキン、レイモンド・ゴイスといった法・政治哲学者を一部参照にした規範的議論は、「どっちもどっち」論を乗り越えこの問題にかかわる法や政治の社会的な基礎を強固なものとするのに強力な一冊となる筈だ。

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか