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「カーニヴァル化する社会」とゼロアカ

鈴木謙介さんの「カーニヴァル化する社会」読了。宮台さんのお弟子さんだけあって知的冒険の意欲が感じられる一冊です。カーニヴァルとはZ.バウマンの提起した概念で、鈴木さんはそれを援用しつつ日本の社会を論じています。自分なりにまとめると、大きな物語が失墜し、社会の流動性が高まると、蓄積・一貫性を持つことや価値の主張が困難になり、タフな共同体が形成できなくなる。それでも人々は集団への帰属感を求めずにはいられず、政治信条や思想からというよりは「ネタになる」「面白いから」という動機によって瞬発的な盛り上がりに集団への帰属感を見出すようになる。それがカーニヴァルということらしいです。

本書を読みながら、最近の東浩紀さんの「どんなジャンルでもそうだと思うが、今、祭にもっていくしかない。ゼロアカはカンフル剤。バブルもなければ死ぬしかないのだからやったほうがいい」という発言を思い出しました。ゼロアカは東さんが批評の延命のために起こしたカーニヴァルと言えるかも。とすると、東さんが土壇場で門下生や道場破りの同人誌を買ったり、当日に通過者を増やしたりしたことで、バッシングにあったというのも本書で説明できる。

祭りの「感動」を興ざめさせてしまうような場合、それはバッシングの対象にならざるを得ない。たとえそのバッシングの声が、形式的には彼らの不道徳をせめるものであったとしても、実際に生じているのは「俺の感動を台無しにしやがって」という、別種の祭りでしかない。(p144)

実際、想定していた以上の客が来たことでルール変更せざるを得なかったことや、盛り上げること、なるべく公平にすることなど一人で様々な価値判断で動くことの難しさを、東さんがブログで説明されていたにも関わらず、批判の声はその辺にはあまり触れておらず、議論の底が抜け落ちていたような気がします。東さんは現在「支配者」が邪魔者でしかなくなるカーニヴァルの中、それでも立場上審査しなければならないという矛盾に引き裂かれそうになっているわけですが、今は内容のあるタフな共同体・物語を形成しようとする人は皆こういった矛盾と直面しなくてはいけないのかも。

追記
カーニヴァルというのは結構広い概念のようで、アマゾンなどのサイトを観覧してるときに、データベースから提供された「おすすめ商品」などに「これが俺の欲しいものだったんだ!」などと特別な意味を見出すことも含むようです。

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)