斎藤環『心理学化する社会』(文庫版)

心理学化する社会 (河出文庫)

心理学化する社会 (河出文庫)

この人の本ははじめて読んだ。学者の中では比較的メディアの露出が多かったり(爆笑問題の番組出たりとか)、結構本出してたりすることから、勝手にハデなタイプの学者(それ自体は悪いことだと思ってません)だというステレオタイプを持っていたけど、文章を読んでみたら、いやいや非常に誠実なタイプなのであった。メディアの露出もひきこもり問題への対処という目的のもと戦略的に行っているらしい。さて、本書は、かつて共著で本を出したこともある(『網状言論F改』)東浩紀氏が『動物化するポストモダン』で語ったことを、精神分析の側から語ったアナザー・サイド・オブ・ポストモダンということが出来る。簡単にまとめると、思想・文学がリアリティを失い(大きな物語の喪失)、自らの実存を仮託するリアリティがなくなった現代では、薄められ一般人にも利用可能なものにされた、お手軽な心理学・精神医学がその欠落を埋めている、つまり社会が心理学化している、というのが本書のアウトラインだ。ちなみに本書のタイトルにも使われている「心理学化」という概念のアイデア樫村愛子氏がオリジナルらしい。その現象に対し筆者はそもそも精神分析臨床心理士のカウンセリングというものは、一回性の現象(人生は一回限りだし一つとして同じ人生はない)を解釈する技術であり、普遍的な知識の整った体系であることを期待できない。それなのにトラウマや成熟・狂気というものを解釈する技術が一般化・法則化している(ように捏造されている)、狂気が凡庸化してしまっている(ように誤解されている)、と語る。ではそうした事態を憂慮しているかというと一方で筆者は、小沢牧子(小沢健二のママ)氏の著書『心の専門家はいらない』などを例に挙げて「心の専門家が心のマーケットを作る」「心のケアが現実への対策をおろそかにする」「当たり前の人間関係の中ですることがある」といった「心理学化」への批判に対し、「心理学化」はもう後戻りできない所まで来ており、心理学のマーケットをすべて排除するのは現実的ではなく、さしあたり倫理規定などを設けてやっていくしかない、と繊細なことを考えているようだ。

「文庫版あとがきに代えて」

なお、「文庫版あとがきに代えて」を読むと、単行本出版時から5年経ち、社会の変化に伴って本書での「心理学化」というアイデアは過去のものになってしまっていると筆者は思っているようで、いまや個人は内面に介入されたくないと思うようになっており、社会学の「個人の内面に介入しない言葉」が心理学の代替になっている、つまり「社会の心理学化」から「社会の社会学化」になっているという(そういえば東浩紀氏は昨年のブックファーストでのトークイベントで「今は(思想や文学より)心理学だったり社会学的な知が優位になっている」と言っていた)。内容はちょっと難解だが、流動的な変わる社会=再帰性、伝統的な変わらない社会=恒常性の二つを密接不可分な関係として捉え、

再帰的な動物化を肯定し、そうした変化を支えるための社会システムを完璧に構築し、このうえなく制御された流動性が実現し得たとしても、そこにはおのずから「恒常性」がはらまれてしまう、ということ。言い換えるなら、再帰性を極大化する努力の中に、最大の恒常性の萌芽もまた存在する、ということ。

と主張するくだりは東浩紀氏の環境管理型権力のアイデアに対する斎藤環氏からの返答ともいえる。最後に筆者は日々の「反復」こそが再帰性と恒常性の双方の契機が宿る領域であるとし、再帰性を確保するために恒常性を確保すること、そのために精神分析的な倫理をどこに見出し、どのように実践するかを問い直し、そのような実践を反復することが自らの進む方向だとしている。このあたりは難解で自分も未消化な部分があるのだけど、再帰性に偏りすぎて他者への信頼といったものを破壊しすぎてしまうことにも陥らず、恒常性に偏りすぎて保守反動で原理主義にも陥らないために精神分析を用いる、ということかな。