科学史における哲学者

科学その歩み

科学その歩み

本書が扱うのは科学史であるが、アリストテレスデカルトといった哲学者も登場する。本書を読むと、今でこそ哲学と科学はキッチリ弁別されてるけど、昔は両者の境界線は曖昧だったとわかる。近代哲学や近代科学が出発したのは17世紀ごろで、哲学ならデカルト、科学ならニュートンやベーコンあたりが出発点ということになるらしい。

ところでアリストテレスというとどんなイメージを思い浮かべるだろうか。道行く人に何やら啓蒙したりとかいうイメージがあるのではないだろうか。「すべて人間は生まれながらにして知ることを欲するんやで。ホンマやで」みたいな(なんで大阪弁なのかよくわからんが)。実はこの人、生物学でも重要人物で、サメやクジラを解剖して生理学や生態学の研究を開拓し、間違いも含まれてはいたが、あの時代にここまでやったのはスゲぇよ的に近代以降の生物学者からも賞賛されるほどなんだとか。
デカルトは「われ思うゆえにわれあり」とか言って深遠なことを語っていたというイメージがあるが、本書ではウイリアム・ハーヴィーの血液循環論に影響を受け独自の生理学理論を提唱した人物としての側面に照明が当てられる。デカルトは数学も強かった。また、哲学史ではご存知の通り、彼は理性を重視し、明晰な事実から出発し、それに推論を加え論理体系をくみ上げていくという方法を確立する。これがデカルト以降の哲学の源流となった(そして後にポスト構造主義にdisられることに・・・)。

一方デカルトと同時代のフランシス・ベーコンは経験論といって、実験と観察を重視して近代科学の出発点となる。その後、ニュートンが「われ仮説をつくらず」といって実験して得られた結果以外には口は出さない(=仮説をつくらない)という立場をとり、近代物理学の祖となり、今で言う実証主義エビデンスベースドを確立したといえる。

ここら辺から対象や方法が哲学と科学とでだんだん離れていく。ゲーテニュートンに対して「もし太陽の光を理解したいと思うなら、部屋を暗くし、しかも狭い孔から光を絞り取るようなことは止めるべきである。すべからく広い空の下に出て、すべての驚くべき色の現象を、自然に現われるままに観照すべきである」とか言って怒ったりしているのだが、おそらくこの手の文系理系の争いもデカルトニュートンの時代あたりからだと思われる。そこから先はセクショナリズムが進んで今に至るって感じか。
個人的には自然科学と哲学が近い場所にあって、いい意味で互いに刺激しあう関係にあった頃が理想だったと思うので、もうちょい歩み寄らんかな、などと思う。人文系の、抽象的で観念的な仮説を立てて事足れりとする人にはもうちょい実証ってものを気にしてみませんかと言いたくなるし、少しでも飛躍があると口汚く罵ってくる実証主義の人には反発したくもなる。例えば僕が加藤周一に惹かれるのは彼が医者であり科学的なものの考え方を身に付けつつも、文学・哲学に対してかなり理解を示していたからというのが大きい。今だったらスティーブン・ピンカーという認知心理学で活躍している科学者がいるんだけど、彼はカントの考えについて、その限界を示しつつも「ヒトの心を理解する上できわめて有益である」と評価している。
結局僕が何を言いたいかっつうと、文系理系の争いは不毛だし、こういう文理両道な考え方の人たちがもっと出てこんかなってことなのですがいかがでしょう。アリストテレスが今の学問の状況を見たらどう思うのだろうね。