市川伸一『考えることの科学』

考えることの科学―推論の認知心理学への招待 (中公新書)

考えることの科学―推論の認知心理学への招待 (中公新書)

あらゆる学問では「推論」を行っているけれど、その推論自体を学問の対象にした認知心理学の本。人は学問的な推論を行っている時、論理的・合理的に考えているようで、その実いかにその思考が偏っているかを明らかにしていく。論理的に考えることと、感情に動かされることは両立するのだ。

例えば坂道を荷車で荷物を運んでいる二人がいるとする。前で引いている人に「後ろにいるのはあなたの息子か?」と聞くと「そうだ」と答えた。後ろの人に「前にいるのはあなたのお父さんか?」と聞くと「違う」と答えた。どういうことだろうか。

矛盾してると思った人は認知の罠にかかっている。荷車で荷物を運ぶ力仕事というだけで、引いてるのは男(父親)とイメージしてしまうが、実は母親が引いているとすれば何の矛盾もない。このように文脈やその変数に関する知識が推論の仕方を決定してしまうことがあるのだ。

また次の二つのうち、どちらが確信度が高いだろうか。

1)スズメには尺骨動脈がある。→すべてのトリには尺骨動脈がある。

2)ペンギンには尺骨動脈がある。→すべてのトリには尺骨動脈がある。

おそらくほとんどの人が1のほうが妥当と考えるのではないだろうか。同じトリという生物なのに。スズメは典型的なトリでペンギンは特殊なトリである。人はより典型的なものに対して見られる特性を一般化する傾向があるらしい。このように帰納的推論を行うとき、カテゴリーについての知識が重要な役割を果たすことがある。結論となるカテゴリーをどれくらい覆いつくしているかという心理的な量を被覆度といい、被覆度によって結論の確信度が決まる、と認知心理学では考える。だから人を説得するために例をあげるときは、なるべく広い範囲からバラバラな例を複数拾うといいかもしれない。

また、学問的な主張では必ず論拠が伴うけど、人はある主張・結論に対して賛成の立場だと、つられて推論過程も正しいと思い込んでしまう、または無意識にチェックが甘くなり、逆に主張・結論に対して反対だと、推論過程のチェックも厳しくなるという。

自分とは反対の意見やデータに対してその不備を指摘するときの人間の意欲と能力は凄いものがある(p173)

これはネットや本などの議論や討論みてるとすごくよくわかる。自分と立場が異なる論者に対して「おまえが根拠にしている資料は怪しいものだ!」とか言ってる人が、自分と主張・立場を同じくする仲間がなにか論文書いたり発言したりする場合には、同じぐらい怪しい資料を根拠にしてても問題にしないで「彼はいいこと言ってる」みたいな。
ネットで議論が起こってグーグルで根拠となるデータを探してる時に自分の主張を否定するような資料が見つかった時は無意識にスルーして、自分の主張を強化するデータが見つかった時は喜んで「ホラ見ろ!」となったことはないだろうか?

このように「こうあってほしい」という期待や知識・信念などが、材料(根拠)集めの段階から推論を方向付けてしまうのだ。ちなみに実際の議論の場面ではそれを知ったところで、反則技を使ってくる相手に対し正攻法で勝負しようとするようなもので、アツくなっている論敵に「勝ちたい」と思う人にはあまり役に立たないかもしれませんが・・・。