『暴走する脳科学』&『心の脳科学』

暴走する脳科学 (光文社新書)

暴走する脳科学 (光文社新書)

心の脳科学―「わたし」は脳から生まれる (中公新書)

心の脳科学―「わたし」は脳から生まれる (中公新書)

最近では脳科学が社会に広く認知され、多くの本が出版されている。

・人間関係での悩み→他人の意思決定の問題→意思決定を行うのは脳→脳科学
うつ病→脳内物質の問題→脳科学
・能力を高めたい→記憶力や身体能力を高めたい→それらを司るのは脳→脳科学

みたいな感じで自分も含めて悩める現代人は脳科学に救いを求めるのかもしれない。
しかし山のように出版されている「脳本」は玉石混交である。
じゃあそれらのアタリ・ハズレを判定するのは誰なのよ、というのはかなり厄介な問題なんだけど、実証的でそれなりに評価の安定している学者によれば、まだまだ高次脳機能の研究は入り口に立ったばかりであって、誠実な脳研究者は、「こ、これはあくまで仮説であって確実だとはいえないんだからね!」ということを強調する。だから「○○を食べれば頭がよくなる!!」みたいな「自信満々な脳本」は疑ってかかったほうがいいかもしれない。

ここで紹介する二冊はどちらも実証主義的な考え方を身に付けつつも、科学を過信しすぎずメタな位置から脳科学に懐疑の目を向けながら、慎重にその可能性を紹介するというアプローチをとっているという点で、個人的に良書と判断する。

高次脳機能の研究ってどんなのかというと、簡単に説明すると被験者に何か聞かせたり読んでもらったり見せたりして、その間に脳の画像(fMRI=機能的核磁気共鳴画像)をとって、自分の子供の画像を見てる時は脳のこの部位が活性化するんだナーとか、コーラを飲んでるときは脳のここが活性化するんだナーといった方法をとるらしい。
しかしこの方法では河野氏も書いているように、短期的で単純な行動を行っているときの脳の状態は調べられるが、「絶望」のような長期的で文脈依存的だったり、特殊な状態については調べられない(これから犯罪を行おうとする人や自殺しようとしている人が実験に応じるだろうか?)。
それに「怒る」と「憎しみ」のような微妙な感情を区別するのは難しいという、感情を表すコトバの恣意性の問題や、同じ脳の持ち主が、脳トレーニングをした場合としなかった場合で比較することができない(一人につきひとつの人生だ!)こととか、まあ現段階では色々限界があって、脳科学は万能じゃないということなので、「仮説の集積」を利用する、ぐらいの気持ちで読むのがいいと思う。
脳に関する本を買うときは、ネットのレビュー(これも玉石混交ですが)を参考にしたり、「筆者の名前+トンデモ」「筆者の名前+批判」でググッてみたりすることを提案したい。しかし一般向けの本でちょっと飛躍した仮説を提示しただけでトンデモとか叩かれてる人もいたりで「どの専門家を信用すればいいか」というのは本当に難しい問題なのだけど…。

なんだか脳科学リテラシーの部分ばかり強調してしまったが、「ノースカロライナの猿がマサチューセッツのロボットの手を動かす話」など脳科学の面白いエピソードも満載で、こういう話を読むとやはり脳科学に期待してしまう自分がいるのも事実だ。
最後に二冊から個人的に、重要だと思った一文を引用しよう。

人間同士の相互作用としての社会性の研究は困難であろう。というのも複数の脳の間の相互作用を継起的に追える観察装置がいまだ存在しないからである。
『暴走する脳科学』p60

日常生活の場で完全に同じことは、まず二度と繰り返されないわけですから、再現性はありえないわけです。したがって検証されることもありません。その意味で「応用」は科学とかけはなれたものになってしまうのです。
『心の脳科学』p273