奇妙なすれ違い─伊勢田哲治・藤野寛による鶴見俊輔インタビュー

鶴見俊輔に関しては正直ノーマークだった。プラグマティズムの輸入者程度に思っていた。
まさかハーバード大学でホワイトヘッドやラッセル、クワイン、カルナップといった英米系哲学者の、目もくらむメンツに直で教わっていたとは。

しかも分析哲学・科学哲学の俊英・伊勢田哲治氏が雑誌でインタビューしてるというじゃありませんか。伊勢田哲治氏がその事実を知った時はさぞや意外に感じただろうな、と思う。俺も何かの検索でみつけた時はびっくりした。

伊勢田氏が鶴見氏に突撃し、「あーた、いかにも日本風の思想家っぽく振舞ってるけど元々まっとうな分析哲学者だったんじゃないですかあ!」と問い詰めたり(そこまでカジュアルに言ってないけど大意は大体あってる)鶴見俊輔論を書いているのが『思想』2009年第5号の以下の記事。

・『思想の科学』の原点をめぐって─鶴見俊輔氏に聞く─ 聞き手:藤野寛伊勢田哲治
・「言葉の力をめぐる考察」藤野寛
・「分析哲学者としての鶴見俊輔伊勢田哲治

その前に「分析哲学」の解説。分析哲学とは哲学的問題に対して言語や概念の分析という形でアプローチする哲学の潮流を指します。学問的な厳密さを重視するのが特徴です。英米でさかえたので英米哲学ともいいます。

さて、このインタビューでは、1939〜1942年にハーバード大学でホワイトヘッドやラッセル、クワイン、カルナップといった英米系哲学者に師事し、正統的な英米系哲学者としてキャリアをスタートさせたにも関わらず、いつしか英米系哲学(分析哲学)から距離を置き、いかにも日本風の"思想家"になっていった鶴見俊輔に若干の疑問を抱きつつ伊勢田氏と藤野氏が鶴見俊輔分析哲学者として再評価しようとしている──のだが、どうも様子がおかしい。というか、なにかがすれ違っていて、そこが面白い。

哲学者としての功績を十分果たしているとする聞き手に対して鶴見はどこかバツが悪そうだ。クワインからの個別指導を受けた話やホワイトヘッドの最終講演を聴いた話とか今分析哲学やってる若い人が聞いたらよだれが出そうな超貴重なエピソードを話しつつも、そんな大したもんじゃないからハハハ〜、みたいな態度というか。「クワインは学問上の師です(笑)生き方に絡むほどのものとは思っていない」などと言ってはぐらかす。

というのも伊勢田氏は分析哲学にコミットし(藤野氏はドイツの哲学からの関心)、信用を置いているというか分析哲学の存在を自明にしているのに対し、鶴見氏はすでに転向していて今や分析哲学を軽くみている。逆に、伊勢田氏は日本的な"思想"(ここでいう思想とは、大陸系の哲学の影響もみられる、吉本隆明とかそれに近い人たちを想定しております)を重視していないのに対し、鶴見氏は思想を分析哲学よりずっと優越した位置におく。こうした、背景とか潜在的な価値判断の違いが表面上での奇妙なすれ違いの原因になっているのだと思う。じっさい、鶴見氏の語りには分析哲学圏の人間が基本的には使用に慎重になる、レトリックやアナロジーがバンバン飛び出してくる。

伊勢田氏の調べでは、帰国してすぐの鶴見の初期の著作では、それなりにアメリカの哲学を日本で実践しようという意気込みが感じられるし、文章に英米系の哲学者の名前も見かけられ、スティーヴンソンなどの哲学者と共鳴するような仕事もしているのだが、1950年代くらいからあまり英米系の哲学者の名前を出さなくなるという。1972年の発言では、自分の初期の仕事について「方法意識が錯覚であることに気づくのに戦中から戦後にかけての時間が必要だった」と否定的なコメントまでしている。ちなみに皮肉なことにこの1972年は飯田隆氏によれば、大陸系哲学が支配的だった日本のアカデミズムで英米系の哲学(科学哲学も英米系)が日本でも盛り上がり始めた年だという。

科学哲学が日本のアカデミズムで部外者扱いをされてきた状況が変わりだした、その変化を象徴する一つの出来事は、一九七二年春に黒田亘が東京大学文学部の哲学講座に着任したことである。(『哲学の歴史』第11巻)


鶴見氏の転向にはアメリカから帰国した当時の日本で弁証法とか現象学とかの大陸哲学系(ヘーゲルとかハイデガーとかね)が圧倒的だった状況とか、元々の本人の資質が分析哲学に向いてなかったという理由があると思う(成績は優秀だったらしいが)。肌に合わなかったというか。以下の発言が真をついてるかも。

私は10代でホワイトヘッド、クワイン、ラッセルと対面で教育を受けた。稀有のチャンスに恵まれた。だから、どうしてそっちの道を行かなかったんですかと言われると、私の内部の不良少年の育ちの部分が勝ったんだなあ。


つまりまとめると正統的な英米系哲学を出自としてキャリアをスタートさせた鶴見俊輔は、当時日本で英米系哲学がマイノリティだったという時代背景や、個人の資質もあってか、次第に英米系の哲学を使って日本を分析していくことに違和感・限界を感じるようになり、距離を置き始め、日本の思想家に肩入れするようになる。しかしプラグマティズムだけは独自に持ち続けた。こうして一般的なイメージ、プラグマティズムの思想家・鶴見俊輔が完成する。

藤野氏も「いや、私なんかは、その話を聞くと残念に思うんですけれど。当時のお仕事を続行しておられたら面白かったのではないか、という」と言っているけど、これは同意。鶴見氏が分析哲学を続けていたら、と想像するのは面白い。戸田山、伊勢田あたりにつながる系譜の元祖として日本の分析哲学の泰斗と呼ばれてたんじゃないか、とか日本でもフランス現代思想のように分析哲学が盛り上がってたんじゃないか、とか。

そしてこのインタビュー、人によっていろんな感じ方があると思う。「せっかくのチャンスを無駄にし、評論家に堕ちた鶴見俊輔分析哲学サイドの俊英・伊勢田先生」という人もいれば「記号論がどうだのといったセマイ哲学に納まりきらなかった天才・鶴見先生といまだアカデミックな方法にこだわり続けるただの秀才・伊勢田」という人もいるでしょう。

しかしまあぼくも分析哲学には関心を持ってますが、大衆と積極的にかかわる方向を選び漫画や映画の文化評論やったりしてのらりくらりとしてる鶴見氏もそれはそれでいいんじゃないかな、と思う。伊勢田氏も鶴見氏が選んだ道を全否定してはいないようだ。伊勢田氏は論考の最後でこう語っている。

鶴見が感じたような限界や違和感は分析哲学の社会的応用に取り組む哲学者がこれからも直面していく問題であろう。


思想 2009年 05月号 [雑誌]

思想 2009年 05月号 [雑誌]