読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「言語」なんて存在するのだろうか

読書

あなたが友人と遊んでいるときに、飲み物やおつまみかなんか足りなくなって、買い物に行こうと席を立ったときに

ある友人が「おれ(わたし)も一緒に行く」と言ったとしたら。

まあまず、「同行の意思の表明」だと受け止めるよね。常識的に考えて。

その一階上で様々な「含み」にあなたはおのずから誘導されることと思う。あなたの方向音痴を心配してるとか、もしや買い物スキルを疑ってるとか、いやいやあなたと二人っきりになりたいんだとか。


分析哲学界の重鎮ドナルド・デイヴィドソンの有名なテーゼ「言語は存在しない」

これは「言語というものはインクの染みや空気の振動にすぎない(キリッ)」とかそういうレヴェルの話で終わるわけではもちろんない(それだけなら高校生でも思いつきそうだ)。


問題なのは規範のようなものが存在しないとか無意味であるということではなく、コミュニケーションの成否がその遵守・違反と一致しないことだ。

デリダデイヴィドソンによれば、その都度の言い回しに対応する多くの言語(あるいは「意味の理論」)を発見し続けることによって、「純粋かつ単純な翻訳ができない」がゆえに終わりのない「合意=約束」をくり返す、そうしたコミュニケーションの経験そのものが、我々の社会性を証し立てています。「言語」が存在するのではなく、常に多くの言語が存在するということが、公共性であり、社会性なのです。


デリダにとって非標準的なものにあらかじめ侵食されることによってしか標準的なものは成立しないという自己脱構築的な力学は、コミュニケーションが記号(彼の言うエクリチュール)に媒介された間接的な出来事であることの言い換えである。どれほどルーティン化しても自然な発話には思いがけない「ターン」が出現する。それに対処できる態勢が整っている事実が重要な点だ。


ふと、デイヴィドソンの立場を政治哲学的な立場でいうとリバタリアニズムにあたるのかなあ、とか思いついた。とすると、規範的な言語観からデイヴィドソンを批判しているマイケル・ダメットリベラリズムだったりコミュニタリアニズム?とかなんとか。

デイヴィドソン  ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

デイヴィドソン ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス