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『交響するコスモス 上巻』

以下は、戸田山(和久)さんが書いたもので本になったものでは、ほぼ最新のもの。戸田山さんのとこしか読んでないが面白かったので紹介したい。

戸田山和久による序文

まずはおさらい

網状モデルとは

ラウダンが編み出したモデル。クーンの「パラダイム」の改良版。理論と方法論と目的のどれか一つを合理的に変えることができる。まず理論が変わり、次に目的と新理論に照らして方法論が修正され、最後に新理論と新しい方法論とに照らして目的が変更される、といったことが可能になる。最初と最後だけとってみると、あたかもパラダイムが起こったように見える。

科学哲学者ジャレット・レプリンは「ラウダンのモデルは、まだ誰も試みてないうちから目的が達成可能かどうかを経験的に判断せよとする点で、不可能事を要求している」とラウダンを批判した。戸田山は「それに対するラウダンの返答は注目に値する」という。ラウダンは「ニュートンは新奇性のある予言を帰結する理論を求めていたのではないが、実際たくさんの予言を生み出した。そういうことを新しい予言を科学の目標にしようという価値論的な提案を証拠立てる経験的データにすることができる」と答えた。
ラウダンの返答で重要なのは、科学の歴史を再構成することが、新たな目的の実現可能性を証拠立てそれにコミットするための方法論に組み込まれ、科学者がいま前に進むための方法の一部にされているということ。

戸田山はこうした歴史の再解釈こそ、すぐれて人文学的知性を必要とすることだという。

時代や社会状況によって適応的に変化させる力による部分と思想がそれ自体の力によって「論理必然的に」展開する部分を慎重に腑分けして、思想の原型を取り出し系統学(系譜学)を描く。こうした特徴づけ自体が社会的歴史的文脈の産物だとか、ロゴス中心主義とか批判はあるかもしれないが、それを承知で人文学はこのようにしてきたのであり、今後このような作業をまったくしなくなる、とは少なくとも私には思えない

と戸田山はいう。


第三章 戸田山和久 宇宙全体のかたちと<左手と右手の区別>

「この世界に最初に創造されたものが一つの手首だったら」

それ以外無で、ただ手首だけがあるという状況を思い浮かべてほしい。その手首が、右手なら右手であるという事実はいったい何に依存するのか。

これは1768年にカントが提出した思考実験だ。

「またどうでもいいミクロなこと考えて……」

と思われるかもしれないが、この問いが、空間についての絶対主義と関係主義という思想史上大きな対立を背景としていることを示し、そしてさらにそれが「宇宙全体がどんなかたちをしているのか」という問題に最終的には関わりを持つことを明らかにする。

カントは空間は物体の外的関係に存するという、ライプニッツのようなドイツの近代哲学者たちの考えを斥け、物体の形を規定する根拠は、ニュートンのような幾何学者が考えているような絶対空間に対する関係に基づくという考え方を擁護している。

ようするに右手と左手の区別は何に存するかという奇妙な問いはライプニッツ流関係主義とニュートン流絶対主義の対立という思想史的な背景のもと、前者を批判し後者を擁護するために問われているのだ。

外的関係主義を斥けるためには、右手はそれを右手たらしめるはずの別の物体がなくともそれだけで右手だと主張すればよいように思われる。しかし、単独の手を取り上げてそれが右手か左手かを問うことは成立しない。そこで戸田山は「不一致対可能」(物体xが不一致対可能である⇔xはxと不一致対象物をなすような物体yをもちうる)という概念を導入する。宇宙で最初に創造された手であっても、それが平らな三次元空間内創造されたのなら単独で不一致対可能。そしてそれはどのような空間におかれているかという空間全体の大域的性質によるのである。

このようにして、宇宙に置かれた手や急須について、それが右手なのか左手なのか、右利き用なのか左利き用なのかを問うことに本質的な意味があるかどうかは宇宙全体がどういう「かたち」をしているかに依存することを明らかにする。

交響するコスモス〈上巻〉人文学・自然科学編「環境からマクロコスモスへ」

交響するコスモス〈上巻〉人文学・自然科学編「環境からマクロコスモスへ」