アブダクションと帰納

ちょっと前に池田信夫氏がこんなついーとをしていて、まあこの二人は経済論壇的に真逆の立場で、disったこと自体はよくあることなのでどうでもいいのだが、アブダクション帰納の違いについて気になっていたので、ちゃちゃっと調べてみました。この際経済論壇的なことは忘れて読んでいただきたい。先に軽く説明しとくとアブダクションというのは、19世紀のアメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースが提唱した推論法のこと。

とりあえず↑で言及されてる岩田規久男氏の『経済学的思考のすすめ』をパラパラしてみる。

結論から前提を真であると類推する

もう一つ広義の帰納法に、結論を導いた前提を、逆に、結論からみて真である、と推論する思考法がある。これはうまい和訳がないが、アブダクションと呼ばれる推論法(p22)

という感じで岩田氏はアブダクションを広義の帰納法だとしている。ただし、ここから先アブダクションの説明としては狭義の帰納(枚挙的帰納)と混ざったような「?」な具体例をあげているのだが。

誰かこの辺詳しい人は……と考えてて気づいた。このブログにもよく登場する戸田山さんが適任じゃん。

というわけで日本トップクラスで論理学、科学哲学に詳しい戸田山和久氏の『科学哲学の冒険』をチェックしてみた。

えーっと、アブダクションを広い意味での帰納の一種としてますねぃ。

次に科学哲学者・伊勢田哲治氏の師匠である内井惣七氏の『推理と論理―シャーロック・ホームズルイス・キャロル』を訪ねてみた。内井氏はパースのアブダクションについてこう述べている。

彼は仮説形成の論理を「アブダクション」と呼び、演繹や帰納から区別した。しかし、彼の議論は時とともに変わっていくし、しかもいろいろなことを断片的にしか述べていないので、なかなか解釈が難しい。パースのアブダクションについて後の人が書いたものもかなりの数にのぼるが私の読んだかぎり十分筋が通って納得のいくものは見当たらなかった。

どうやら幅があるようですな。
さて、内井氏も戸田山氏もパースの専門家ではない。というわけで、パースの専門家がアブダクションを真正面から扱った米盛裕二氏の『アブダクション―仮説と発見の論理』をひもといてみた。そしたらこう書いてあった。

帰納アブダクションはともに経験にもとづく拡張的推論であり、それらは経験的にたがいに連続し支え合っています。(中略)帰納アブダクションに、あるいはアブダクション帰納に解消させるというものではありません。(p91)

ようするに「経験にもとづくという点は共通だけど、やっぱり別モノですよん」ということか。

ちなみに『アブダクション―仮説と発見の論理』ではパース本人が帰納アブダクションの違いについて書いた文章も引用されているのでそれも紹介しよう。

帰納の本質はある一群の事実から同種の事実の他の一群の事実を推論するということにあるが、これに対し、仮説(アブダクション)はある一つの種類の事実から別の種類の事実を推論する」

「仮説的推論(アブダクション)は非常にしばしば直接観察のできない事実を推論する」

「われわれの観察の限界をはるかに超えて帰納を広げていくと、推論は仮説(アブダクション)の性格を帯びるようになる」

(パース論文集2巻パラグラフ640-642)

パースは帰納アブダクションの違いに結構力入れて説明してるんだけど、それってやっぱその二つが近いことの裏返しなんじゃないかなーと思う。

パースは演繹・帰納アブダクションの3分類を提唱したが、情報量や真理保存性といった重要な点でアブダクション帰納は共通しており、また、演繹と断絶がある。ということからアブダクション帰納は地続きで、兄弟みたいなもんといっていいとおれは思う。後ここであげた本には見当たらなかったけど「狭義の」帰納が顕在意識的なのに対して、アブダクションはちょっと潜在意識的なプロセスも使ってる感じ。

それにしてもパースについては現象学とか分析系の伝統から離れた発想が面白いなーと思った。現実は情報が不足していたり、直接観察のできない事実を推論する機会のほうが圧倒的に多いわけだし、気づかないうちに我々はアブダクションに頼っているのかもしれない。

でもって、岩田氏については、アブダクションを広義の帰納法とする説明の前半は特に問題ないが、説明後半についてはアブダクションの具体例としては首をかしげざるを得ない、ってことでいいんじゃないかと(すっかり忘れてた)。ジャッジとかするつもりで調べたわけじゃないからまあそれはわりとどうでもいいのだけど。

なんかやたら検証ブログめいたことを書いてしまったw