三浦雅弘『ことばの迷宮』
特に第一部の3章チョムスキー・クワイン論争と5章、6章の隠喩論がオモロかったんでその話をすることにしよう。
チョムスキー・クワイン論争というのは60〜80年代、足かき20年にわたっておこなわれた論争のことで、部分的には一方が(どちらかといえばクワインが)他方の主張を認めることもあったとはいえ基本的には両者譲らずの平行線に終始したという。
おそらく二人の食い違いの元はクワインの提唱した「翻訳の不確定性」「理論の決定不全性」であるように思われる。
文の意味を、その文を構成する形態素と文法的構造との関数として特定可能とするチョムスキーに対して、クワインは翻訳の不確定性からの当然の帰結として、文の意味を特定可能と見なすことに懐疑的だ。パトナムによれば、こうしたクワインの懐疑を導く「翻訳の不確定性」は古典的二値原理と同一性原理を二大前提にしているからだという。
チョムスキーはクワインの「翻訳の不確定性」の思考実験の設定条件については認める。だからこそチョムスキーは、言語使用が意味についての経験的証拠になると考える。つまり言語学を、言語使用の観察をデータとした経験科学とみなす。が、これにクワインは同意しない。観察データを元にした経験科学だって?ここでクワインの「理論の決定不全性」を思い出そう。「理論の決定不全性」とは、我々がいっさいの正しい観察文を知ろうと、その観察文の総体に対して複数の科学理論があり得る、という話だった。かくしてクワインは特定の言語理論や特定の文法をユニークに真なるものとして決定することはできないよ、文法は複数あるよ、としてチョムスキーとまっこうから対立するのでありました。
実はチョムスキーの生成文法理論に鋭敏に反応したクワインも、必ずしも生得性仮説を全否定したわけではなかった。むしろ早い時期から再三にわたって、言語習得には未知の生得的構造が不可欠であるとする予測を公にしてきた。クワインは「客観的実在(例えば脳状態)」は認めているのだ。しかし現時点では知られていない生理的プロセスにまたもや「決定不全性」が適用されて普遍文法が否定される、という感じか。
ところで、クワインはなんで変なとこで公理系アプローチというかあれだけ批判したウィーン学団的な考え方にこだわるんだろう?と疑問に思う。また、チョムスキーは、クワインが読んできたカルナップやタルスキを読んだのだろうか?その辺知ってれば、もう少し歩み寄れたのではないかと思うのだけど。
・隠喩論
5章、6章は隠喩論。隠喩をめぐる議論の足どりを追い、有力な説の検討を行う。
まず19世紀にはすでに修辞学書にみられる、隠喩表現とはそれに等価なある本義的な表現の代わりに用いられるとする見解は「隠喩代替説」とよばれる。
↑のバリエーションのひとつとして隠喩表現は直喩表現や比較表現の濃縮ないし省略形とみなす「隠喩比較説」ってのもある。「人間は狼だ」は「人間は凶暴な点で狼のようだ」の「凶暴な点で」と「ようだ」が省略されたものとしてみる、みたいな。ちなみにこの2つは今では評判が悪い。
今有力なのはアイヴァ・アームストロング・リチャーズが提唱しマックス・ブラックが精緻化した「相互作用説」と呼ばれるもので、「一つの語句を支えとして、二つの異なるものについての思念を同時に働かせており、この語句の意味は二つの思念の相互作用の結果として生じたものである」というもの。
「人間は狼である」という言明なら、隠喩の焦点(focus)の語「狼」は与えられた枠組みや文脈によって新しい意味を得るが、それは「狼」の本義的意味でもなければ、別の意味がとって代わるわけでもないむしろ新しい枠組が焦点の語に意味の拡張を強いたのであり、隠喩が有効に機能するためには、聞き手はその意味の拡張を意識しなければならない、とされる。ここまでがリチャーズで、ブラックはさらに「通念の体系」とか「含意の体系」なんてのを持ち出して精緻化している。
「相互作用説」には批判もある。ジョン・サールは相互作用説を、フレーゲ的な意義と指示対象に関して連想される信念との間の関係として説明しようとしている点で評価しているものの、コンテクストに依存するのは何も隠喩に限らず普通にあるでしょ、とかそもそも説明に使ってる相互作用という表現が隠喩じゃないの、とかそういう批判をしてる。
サールは、発話を本義的に受け取ろうとすると、明白な虚偽、ナンセンス、言語行為上の規則の侵犯などの欠陥があらわになる場合は文の意味とは異なる発話の意味を探し求めよ、という戦術を提示する。第二段階としてR(本義とは別の命題)のとりうる値を算出するための原理群を持っていなければならないとする。サールによれば隠喩の問題の核心はこの原理群の記述にある。最後に第三段階として話し手が陳述しているRはどのRと考えられるか、つまりRの範囲を限定するための原理群をもっていなければならない。
デイヴィドソンはサールとは異なり、第二の命題みたいなものなんかなくて本義的意味しかないと考える。そのかわりデイヴィドソンは言葉が何を意味するかという意味論と言葉は何をするために使用されるかという語用論を峻別して、隠喩は語用論の領域に属すると考える。
他にもピリシン、アンダソンらが支持する命題コード仮説とペイヴィオ、コスリンらが支持する二重コード仮説との論争など興味ぶかい話題がいっぱい。
ただあんまり解明が進んじゃうと隠喩とか詩の面白さがなくなるのではないかという人もいるかもしれない。それについては個人的には楽観的に考えている。というのもどうしたって天才的な閃きのある詩のもつ力というのはそうした枠組みをもって構えているこちら側なんか軽く飛び越えて驚きをもたらしてしまうものだと思うから。
もくじ
<第1部 言 語>
第1章 レーヴェンハイム・スコーレムの定理と内在的実在論
1.レーヴェンハイム・スコーレムの定理 2.スコーレムのパラドクス 3.パトナムの内在的実在論第2章 生成意味論の残したもの
1.その後の「中国語の部屋」 2.意味論とモデル論 3.統語論と意味論第3章 「チョムスキー・クワイン論争」とは何だったのか?
1.生得的仮説 2.言語学の身分 3.文法と論理第4章 可能世界意味論からモンタギュー文法へ
1.歴史的端緒 2.条件文の分析 3.モデル論からのアプローチ 4.モンタギュー文法第5章 隠喩論の足跡
1.代替説と比較説 2.相互作用説第6章 隠喩とイメージ
1.隠喩の相互作用説とイメージ 2.認知意味論からの考察 3.認知心理学のイメージ論争 4.脳神経科学より見たイメージ生成<第2部 科学の基礎>
第1章 モデルとは何か?
1.タルスキのモデル論 2.三つの科学的モデル 3.「数学的モデル」ヘの疑問とモデルの階層性 4.モデル論と科学的モデル第2章 数学的直感
1.知覚と「直観」―マディの議論 2.知覚と「直観」―パーソンズの議論 3.回帰関数としての直観―生成文法第3章 傾向性について
1.端緒―カルナップと科学理論 2.二人の継承者―グッドマンとクワイン 3.傾向性と因果―ライルによる展開 4.傾向性と条件文<第3部 心理学の哲学>
第1章 信念の病理
1.問題の端緒 2.非合理性について 3.意志薄弱 4.自己欺瞞第2章 感情・認知・自己欺瞞
1.ヒューム感情論の構図 2.感情と認知 3.感情と自己欺瞞
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