矢向正人『音楽と美の言語ゲーム』

「最近よく更新してますね」といわれますが(いわれてませんが)、以前読書ノートとったまま放置プレイしてたのを今バーゲンセールしているだけという説もあります。その辺の議論については明るくないのでぼくにはよくわかりませんが。



言語ゲームと○○」というタイトルには当たり外れが大きいというけんども(というか具体的にたけみたさんがいってたんだけんども)、これは、まあ、楽しめた。
著者のフィールドはあくまで民族音楽の音楽学の人であって、「点」として後期ウィトゲンシュタインを捉えてはいるけど、分析系の美学を「線」としてごりごりにフォローしているわけではないようだ(?)。バルトとかドゥルーズとかもニュートラルに使ってるし。分析美学ではそういう人たちは研究の対象にはなっても援用とかはあまりないし*1

さて、著者は序章で、音楽の美を認識するときの基本的な問題点を5つあげている。

A 音楽美の消去可能性
B 音楽美の確証不可能性
C 音楽美の言説の無規定性
D 音楽を評価する言説の不一致と多様性
E 音楽実践における身振りや言説の重大性

著者の考えではA〜Dゆえに音楽の美学にはトートロジーが生じてしまいがちで、従来の音楽美学が美を学問的な言葉に置き換える難しさを抱え解決に至らないでいた。著者は構造分析、アドルノ的美学に限界を感じ、A〜Eのような問題点を解決するためにかねてから愛読してきたウィトゲンシュタイン言語ゲームを導入した新しいモデルを構想する。

ウィトゲンシュタインによると、私的な感覚あるいは体験をになうのは体験の中にある内面ではなく、それらを形成している形式化された振る舞いで、ウィトゲンシュタインはこの行為における振る舞いを言語ゲームと呼んだのだった。著者はそれをさらに展開させ一般的にモデル化する。

まず基本的なゲームとして1次ゲームと2次ゲームを置く。これは「美を記述するためには少なくとも音楽の行為に巻き込まれていなければならない」という著者の考えからでもある。

1次ゲーム…音楽それ自体
2次ゲーム…音楽に対する言及・賞賛・分析

この1次ゲームと2次ゲームを合わせて「是認の身振りのゲーム」といい、この2つのゲームの循環から美は生じてくると著者はいう。「是認の身振りのゲーム」はきめの細かいもので、身ぶり、表情、まなざし、口調なども含まれる。

さらに音楽論に生じがちなトートロジーや「西洋中心的」な音楽美を回避するため「音の持続・反復のゲーム」「美のブラックボックスのゲーム」「変更のゲーム」といったゲームも導入される。そして音楽美はこれらのゲームの相互的な営みとして生じる。以上の言語ゲームに基づく美の説明において、美の言説に生じてしまいがちなトートロジーは解除されている。そして音楽の美が、人間の行為のすべての営みを包み込む生活世界としての言語ゲームの運動の行為として説明される。

第二部では、是認の身振りのフィードバックをより広いパースペクティブで検討することにより、音楽の価値=よさ、それを人々に信じさせている仕組みを具体例を挙げて可視化させていく。

今日では、テクノロジーの介入により、作曲のゲームと演奏のゲームとの区別が不分明な音楽、すなわち、生の音か、加工された音か、楽曲を人間が演奏しているのか、機械が演奏しているかについての区別が意味を持たないジャンルもある。音楽のこうした現状に新たな局面を拓くことをも意図している。

本書の議論を、批評、サブカルチャーメディアアートなどの議論に応用することは可能であるかもしれない。

と著者が語っているとおり本書が提示するモデルの射程は案外広いのかも(ニコ動の作品とかは流れるコメントで成り立ってるところとかあるしね)。それと著者=矢向氏はレティー、ケラーの分析理論、ローマックスの「計量音楽学」、レアダールとジャッケンドフによる「調性音楽の生成理論」などにも明るく、それらと音楽美の言語ゲームのモデルはどうつながってくるのかということにも興味があったのだが、それらにはあまり言及されていないというのが心残りかな。

音楽と美の言語ゲーム―ヴィトゲンシュタインから音楽の一般理論へ

音楽と美の言語ゲーム―ヴィトゲンシュタインから音楽の一般理論へ

 

*1:分析哲学とバルトの美学の議論の関係について興味のある人は「ラマルク 作者の死」で検索してみよう。