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岡本裕一朗『ヘーゲルと現代思想の臨界―ポストモダンのフクロウたち』

ヘーゲルと現代思想の臨界―ポストモダンのフクロウたち

ヘーゲルと現代思想の臨界―ポストモダンのフクロウたち

ヘーゲル著作の誤読あるいは独自解釈に基づくヘーゲル神話という観点からいわゆる現代思想を解きほぐしていきませう、というのが本書のアウトラインで或る。

大陸哲学といってもいろいろあるけどこの著者さんはヘーゲルの議論を仔細に検討することを通じてヘーゲルに影響を受けた現代思想を整理してる。でもこの著者は現代思想を無下に叩いているわけじゃなく、ここはさすがに「哲学は誤読上等」とかで看過するのはどうなの、と言わざるをえないような所を繊細に指摘しているというかんじ。

たとえば「主奴論」。これは1930年代にコジェーヴヘーゲルの『精神現象学』を「歴史全体を主人と奴隷の闘争の歴史としてみる」という風に独自解釈をしたもので*1、そこからラカン、カイヨワ、メルロ=ポンティバタイユなどコジェーヴの弟子たちに広がり、現代思想の源流の一つになった。
主奴論とマルクスを結びつけたのはコジェーヴが初めてだった。そしてそこから常識化されるのだが、その読みがコジェーヴに由来することはほとんど言及されない*2。「マルクスヘーゲルの主奴論に影響を受けた」というのはコジェーヴから始まる神話なのだ。しかし多くの研究者は歴史全体に貫通する「支配-被支配」関係を読み込んでしまう。サルトルもイポリットもヘーゲルの「主奴論」のマルクスへの影響を語るがどう影響を与えたかについては明確にしていない。


なお、コジェーヴは、ドゴール政府の外交顧問となり、ECの設立に関してヨーロッパ統合の裏方を務めたそうだ*3。つ凸 <へー、へー、へー


他にもたとえば「疎外論」。ヘーゲル自身が「絶対者」とか「神」などの言葉を使うときに文字通り受け取ることを戒めているにもかかわらずルカーチは「疎外」概念を「絶対者の自己展開」という形で神話化した。
ハーバマスはヘーゲルが「主観=客観」図式のもとで哲学構想していると批判するが、この時念頭にあるのはルカーチ譲りのヘーゲル理解だったりする。「自己を疎外する」とか「自己を外化する」という言葉が、ヘーゲルの思想としてしばしば語られる。しかし、こういう理解はルカーチが確立したヘーゲル解釈によって創作されたものといってよい。「エントオイセルング」を「外化」と翻訳し、それを「大きな主体」の対象化=外化とみなす必要もないしそう解釈することが自明なわけでもない、ということは確認しておきたい。

他にも、「同一性」へと統合するヘーゲル的な弁証法に異を唱えるドゥルーズフーコーといった思想家(彼らの多くはポストモダンという言葉を嫌ったが)が強調する「差異」「分裂」「主体そのものの不可能性」について、それぞれのテクストとじっくり向き合いながら、彼らのヘーゲル批判があまりうまくいってないことを明らかにする。反ヘーゲルを唱える彼らこそがヘーゲルから離れられないでいるのである。

英語圏の哲学関連だと、11章で、アメリカのマクダウェル、ブランダムといった人たちによる"ネオ・ヘーゲル主義のピッツバーグ学派"というムーブメントやそれに対するドイツからの反応など比較的新しくて日本では貴重なトピックもフォローしているのが何気に高ポイント。

「なんで大陸系の人達ってそういう発想すんの?」と疑問に思ってる人にはきわめて有用、だと思う。
この著者の何がいいっていわゆる大陸哲学とか現代思想について生半可で突っ込みいれてるんじゃなくて、文献を丁寧に読み込んでて文脈わかってるところ。だから無下にDISったりしないし、繊細に扱ってる。ゲンダイシソウって信者がいたり叩かれたりしてるみたいだけど実際のところどうなの?という人には、文脈に疎いソーカルとかよりむしろ本書をすすめたい。


本書の文献に載っている思想家をざっとあげてみるとこんな感じ↓

コジェーヴ オフレ フクヤマ フォルスター ルカーチ  ローゼンクランツ アドルノ アドルノ/ホルクハイマー ガダマー フィンク フィッシャー  ハーバマス ジジェク デリダ イポリット サルトル マルクーゼ ノーマン デコンブ マルクス エンゲルス ポパー ぺゲラー ヘンリッヒ リッター メルロ=ポンティ フーコー リオタール ドゥルーズ ドゥルーズ/ガタリ アルチュセール ネグリ/ハート カットロッフェロ ラカン テイラー ハーマッハー ボーヴォワール フレイザー コーネル ローティ ハイデガー バディウ セラーズ ブランダム マクダウェル 

なおヘーゲル著作についてはもちろんいろんなバージョンの『全集』が参考文献に掲載されている。単行書、日本人によるヘーゲル研究については多いので省略。文献の後にはブックガイドもついてる。

*1:ドミニック・オフレが指摘するようにこの点はコジェーヴ自身も自覚していた。

*2:コジェーヴの評伝を書いたドミニック・オフレは「彼の著作は盗用はされたが、引用されたのは稀だった」としている。

*3:このエピソードは本書とは別に野家啓一『物語の哲学』の「序」で知った。