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ギルバート・ライルによる『存在と時間』書評

自分がコレ読んだのはけっこう前ですけど、大陸系と分析系といいますか、日常言語学派の哲学者が現象学的伝統に言及しているのは割とレアかなと思い、紹介してみます。ライル先生、このとき28歳ですけど、現象学のほうの事情もかなりお詳しいです。

つーわけで、マイケル・ダメットの表現を借りれば、「ライン川ドナウ川」が分かれようとしているまさにその時代、1929年までさかのぼることにしよう。

1929年の英国では、フッサールやブレンターノの翻訳や解説がまだまだ進められておらず、それらの流れの先にある『存在と時間』は、英語圏の読者には手に余るだろう、ということでライルはまず現象学の発生とこれまでの歴史についてコンテクストの素描から始める。流れ的にはブレンターノ→フッサールハイデガーとゆう感じ。

ロック、バークリー、ヒュームなどによってすでに問題が設定されていたブレンターノはロックの基本的立場、「観念」という考えを拒絶することによって、ヒュームの(懐疑的)結論から身をかわし「観念をもつ」という原初的な心的作用とは質の異なる三つのタイプの心的作用を打ち立てる。この区分は彼の弟子たち、マイノングやフッサールに基本的に受け入れられた。
ブレンターノの遺産で重要なものが「志向性」*1現象学の誕生にとって必要条件(ほとんど十分条件)であった「志向的対象を伴った我々の心的作用および心的事実の絶対的自己明証性の理論」。

さてブレンターノのお弟子さんのフッサールは『論理学研究』一、二巻などの仕事によって、多くの人にボルツァーノフレーゲの線に沿って仕事を進めていくことを期待されていたが、彼は「志向的経験」に関する学へと向かう。

ライルが苦情を言いたいのは、フッサール現象学のその網をあらゆるものへ拡げ、諸学問の基礎となる第一哲学としようとしたこと、そしてブレンターノの悪しき遺産に由来するフッサール-ハイデガー流の「意味」の取り扱いについてなのであった。
しかしライルは第一哲学としての現象学を問題だと思っているのであり、経験論的伝統の内部にある観念研究への批判としての現象学や、経験科学的研究と心の概念を峻別しようとする現象学のあり方には好意的だ。

ただ最初にも触れたようにライルがこれ書いたのは1929年であって、実は1949年に『心の概念』を出した頃にはハイデガーの考えに近づいていた*2

ライルによる書評で解説される現象学のアイデアは基本的にその後の大陸系哲学に広く影響を与えたと思われるので(「批判的に乗り越える」とかも含めて)、現象学以降の大陸哲学(こういう呼び方は、ひょっとしたら、よくないのかもしれない)を読むための一助になるんじゃないかな。

入手難易度はそんなに高くないので興味があればどうぞ。↓


ギルバート・ライル「ハイデガーの『存在と時間』」野家啓一
現代思想』1979年9月・臨時増刊ハイデガー

Gilbert Ryle"Heidegger's Sein und Zeit"
Mind 38 (1929)

*1:もっとも志向性という言葉自体はもっと昔から使われていたのであるが

*2:これは門脇俊介氏が『破壊と構築』で指摘してたことなのだけれども、門脇氏はそこ(命題内容をもった知識とは異なるknow-howってやつ)を両者を接続するフックにすることを考える仕事に興味を見出す