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スティーヴン・クレスゲ編『ハイエク、ハイエクを語る』

これは経済学がどうこうというより20世紀初期ウィーンの状況とかに興味があって手に取った。
本人の手による自伝的ノートをベースに、トピックに関連するインタヴューが合間合間に挿入されるというちょっとユニークな構成。

狭義の哲学者ならぬハイエクの視点から語られる論理実証主義の記述や、当時のウィーンのユダヤ人問題とか、意想外に得られたものは大きかった。

ハイエクのひとつ前の世代の物理学者エルンスト・マッハの哲学が20世紀初期のウィーンで支配的な影響力をもっており、エルンスト・マッハ協会の後身であるウィーン学団ハイエクの所属していたサークルとには共通のメンバーがいたので、その人物を通じてハイエク論理実証主義の考え方を学んでいった。あの経済学のビッグネーム、シュンペーターハイエクとほぼ同時代にオーストリアで生まれているが、やはりエルンスト・マッハに全面的にほれこんでいたという。

しかし彼らの経済学、社会科学に対するナイーヴさにハイエクは懐疑的になる。対象の複雑さゆえにマッハ的実証主義は厳格に適用はできないと。そんな折にポパーの科学哲学を知り、我が意を得たりと思ったそうだ。ポパーとは哲学面でかなり共通のものがあると認めており、イギリス移住後は「非常に親しい友人」となった。ハイエクウィーン学団のアイデアが極端であったがゆえに経済学の分野ではうまくいくものではないと気づくことができたと回顧している。

他にもポパーが『隷従への道』を賞賛したのをカルナップが叱責したとか、寝台車でハイエクと従兄弟であるウィトゲンシュタインと同室になって政治について議論したエピソードとか、まあウィトの場合あまりハイエクの思想に直接絡んではこないけど、チラッと出てくる哲学者との絡みはやっぱり面白い。

他の経済学者との関係に言及すれば、一般に仲が悪いとされている(?)ケインズ(大雑把にいえば「リフレ派」もこの人の流れ)について「個人的には仲がよかったのであって、私は多くの点で、人間としての彼に対しては最大の賞賛と親愛の気持ちをもっていた」なんていいつつ、別の箇所では「ケインズは19世紀の経済学に無知だった」「多くの点で彼を賞賛しているがよい経済学者だったとは思えない」とも。ケインズケインズで『隷従への道』が出版されたときに賞賛の手紙を送ったが、その中で不満も述べている。意見を異にしつつ互いの才を認め合うよきライバルといった感じ?

また、一緒くたにされがちなミルトン・フリードマンシカゴ学派)に対しては大体において意見が一致するとしつつ、数理経済学的な傾向や通貨政策については批判的で、フリードマンの『実証経済学論集』の批判を展開しなかったことを後悔していたり。
ゲーム理論をどう評価されますか?」という質問に対しては経済学に重要な貢献をしたとは思わないが非常に興味深い数学の一分野だと思う、なんて発言も。



資本主義は、われわれが、理性的洞察力と別に、様々な道徳を伝統によって授けられてもっていることを前提にしています。それらは、進化によってテストされてきたものですが、われわれの知性によって設計されてきたものではありません。われわれは、その様々な帰結を理解したから所有権を発明したのではありません。家族制度も同じです。それらは、偶然の伝統、本質的に宗教的な伝統なのです。(p.61)

「進化」の用法が若干気になるが、ここなんかは、コミュニタリアンとか、日本でいうと(後期の)宮台真司氏とか中島岳志氏がいってることとそう遠くない。

保守思想は、単なる「非合理」への耽溺「合理的思考の否定」ではありません。保守が重要視するのは、「合理的に考え抜いた末、合理には限界があるという認識にいたること」です。
(『日本思想という病』の中島岳志パート p.78)

日本思想という病(SYNODOS READINGS)

日本思想という病(SYNODOS READINGS)

じっさい『日本思想という病』の中島岳志パートの「自生的秩序」という節でハイエクが紹介されているのは興味深い。しかし、そこまでは認識を共有しつつも、コミュニタリアンや中島・宮台系の保守は不完全な人間が構成する市場の機能の絶対視を批判し、ハイエクとは分かれることになる。



1945年に行われた討論の中でのハイエクへの質問はまさに聞きたかったことが聞かれていて大変参考になった。「設計主義」とか「計画」っていうけど、一体どこまでなのよ?という人はここを読めばいいんじゃないかな。

Q.あなたが攻撃しない種類の計画について具体的に列挙していただけますか?

Q.TVA(テネシー渓谷開発計画)についてはどうですか?

Q.「計画」の語であなたは何を考えていますか?

Q.最低賃金のようなものは許容可能でしょうか?

……などなど。
これらの質問に対するハイエクの回答について気になった人はぜひ本書を読んで確認していただきたいが、少なくともハイエクは「自分はアナーキストではない」とは言ってる。今でいうとベーシック・インカムなんかに近いのかなあ。

あなたがたは、依然として古い論争について語っています――国家は活動すべきかまったく活動すべきでないか――。私の本(『隷従への道』)で払った努力の全体は、この古いばかげているとともに曖昧な観念を新しい区別と取り替えるためのものでした。私は、ある種の国家活動が極めて危険であることに気づいたのです。そのための私の努力の全体は正当な活動と不当な活動とを区別することに向けられました。私は以下のように言うことでこの区別を行おうと試みました。すなわち、政府が競争のために計画する場合や、競争がその仕事をすることができない場所に踏み込む限りは問題はないが、他のすべての形態の政府活動は大いに危険である、というものです。(p.151)

ハイエクは不完全な合理性を持つ人間には小さな計画は出来ても大きな、長期的な計画はできないとしてて、それが「設計主義」批判と密接に結びついている。そこをケインズに「計画が効率であることもまったくありうるのです」って突っ込まれてるけど、ここに関しては、現代では「市場内のプレイヤー」が広範囲で長期的な計画を立てることもあるのではないか、とひるがえってハイエクに問うてみたい気もする。

ハイエク思想をいじるとしたら、ハイエクの哲学観はポパー期で止まってるようで、ポパーはもう過去の人なので、そこは最近の哲学者を使ってアップデートしてもいいんではないか、とか、人間モデルに対して言ってることは「長期的な計画を立てられるほど賢くない」ぐらいしか見受けられないので、行為者のモデルをもっと精緻化できるかも、とか。

まあハイエクゲーム理論とか数理的アプローチに懐疑的だったので、生きてたら反対されるかもしらんけどハーバート・ギンタスがそれっぽいことやってるのかな。参考までに。

ゲーム理論による社会科学の統合 (叢書 制度を考える)

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ハイエク、ハイエクを語る

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