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ゼノン・W・ピリシン『ものと場所―心は世界とどう結びついているか』

著者ゼノン・W・ピリシンは1937年生まれ、ラトガース大学に在職し、同大学認知科学センターの所長も勤める認知科学の重鎮の一人。


チザムやシュリックといった古典的認識論の哲学者は、ある内容を持った信念が別の信念を正当化して…という一連の流れをどうやって打ち止めできるか、という問題に対し、信念よりもっと原初的な感覚(所与とかセンスデータ)とかいう答えを与えてきた。それに対し、本書でもピリシンがちょこっと言及しているように、哲学者のウィルフリッド・セラーズはそんなものは感覚印象と命題的内容を持つ知識をごっちゃにしてでっち上げられた「所与の神話」にすぎないといって批判したのだった。

本書は「?」の部分についての哲学的&経験的探求といえる。

1〜3章は視覚における対象把握が主題。

これまでクワインやストローソンといった哲学者は、知覚において何かを同一のトークン事物として同定することには概念化が必要であると理解してきた。ピリシンはそれに部分的に同意する。しかし、対象把握がこのような概念的な表象にのみ基づいているとすると因果的な情報処理過程にどうやって位置づけるのか。ピリシンは無限後退を避けるためには原初的な因果的つながりに基礎付けられなければならないと考える。そこでピリシンが提案するのが視覚的指標=FINST(Fingers of INSTantiation)の理論だ。

視野内の諸事物を同一のトークン事物として同定し、コード化による高次の概念的述定の基盤を提供するのが、初期視覚に組み込まれた、非概念的でサブパーソナルなFINSTの機能なのだ。ただし「久しぶりに友人に会う」といった明らかに長期記憶を使う事例はFINSTの機能からは外れる。

その際「位置をコード化&位置情報を継続的に更新してるのではないか」といった想定される他の説を、ピリシンは「多対象追跡実験」という巧みに操作された実験によってその仮説を排除している。

◇残された課題(テクニカルなので読み飛ばしておkです)


ピリシンは哲学者ソール・クリプキの指示の理論*1に言及しつつ、FINSTはそれとは違い、徹頭徹尾、因果的なプロセスであるため、「対象の表面で反射された空気中の光の配列パターン」、「網膜像」、「神経諸領域」といった因果連鎖を構成する媒介項の中で、特定の項を述定された性質をもつものとして決定するのは何なのか、(私が犬を知覚するという状況なら)FINSTが指示し、私が表象するのが「外界に存在する犬」という対象であることは何によって保障されるのか、という問いを提起している。
ピリシンはこれを「指示がどうやって自然化されるかの大問題」のひとつであり、本書の範囲を越えていると述べるに留まる*2

4章ではFINST理論からやや離れ、「意識経験」が主題。
経験の内容はそれを経験するものには透明であるという見解やギブソンの直接知覚理論が批判的検討され、意識経験が特定の表象レベルに対応するという見解が斥けられる。ピリシンは意識経験は複数のタイプもしくはレベルの表象の混合物であり、(閾下知覚の研究などから)意識経験についての一人称報告は特権的な証拠ではなく心的内容に関する証拠のひとつに過ぎない(しかも誤りうる)と結論する。

言いかえれば、意識経験とは、一部の哲学者が措定しているような「豊かなきめ細かい非概念的表象」に対応したものでない。

図にまとめるとこうなるだろか(チープですいません)。

この図は私があちこちのページをいったりきたりしながら作成したのであってピリシン本人が作成したものではありません。念のため

もっとも「命題的態度」とかも自然化を虎視眈々と狙ってる人には不徹底に見えるかも知れぬ

本書では空間の表象や視覚と想像の違いなどのトピックも扱っており(一度だけネルソン・グッドマンが引用されてる)、現象学とか美学の人も興味深く読めるかも。

ものと場所: 心は世界とどう結びついているか (ジャン・ニコ講義セレクション)

ものと場所: 心は世界とどう結びついているか (ジャン・ニコ講義セレクション)



ちなみに『ものと場所』読む前に読んだほうがいいかなと思ってこれも読んだ。
勁草書房から出てる横澤一彦『視覚科学』
視覚についての純然たる経験的探求。これはこれで面白かったけど、『ものと場所』とは思ってたより関係なかったw

視覚科学

視覚科学


付録2

「表象ってなによ」ってひと向けの戸田山せんせの解説

ところで表象(representation)とはいったい何か。まずはこのことから説明していこう。最も広い意味で言うならば、表象とは何らかの他の対象を意味し、代理しているもののことである。(…)しかし、いま問題にしているような「表象」といえば、たいていは「心的表象」のことである。「猫」という言葉は音(空気の振動)とか紙の上のインクの染みという形で、猫の絵は布と絵の具の塊という形でこの世に存在している。これと同様に、心的表象も心(脳)の中に何らかの仕方で物理的に実現しているのだろう。

心的表象の実現のされ方はまだよくわかっていない。モデルの数だけ考え方があるといって良いだろう。しかし、ともかく何らかの仕方でわれわれの頭の中にはさまざまな対象についての表象が実現されていないと困るのである。なぜか?ケヴィンが「メアリーはジョンを愛している。だけどジョンはメアリーを愛してはいない。ジョンが愛しているのはケイトだ。まてよ、ここでケイトもジョンを愛しているとすると……」とかなんとか考えているとする。ケヴィンはメアリー、ジョン、ケイトについて考えている。もちろん、これらの人々が、ケヴィンの頭の中にいるわけではない。ケヴィンが考えているときに彼の頭の中にあるのは、この人たちを意味する(指す)、この人たちの代わりになる何ものかのはずである。これらがつまるところ表象と呼ばれる。この人は、メアリー、ジョン、ケイトの表象を頭の中にもっており、それらを操作することによって、彼らについて、彼らがいないところにおいてもいろいろと考えることができる……と、こうなっているはずである。物理的正体はさっぱりわからないまま、認知科学で表象というものが想定されているのは、こうした理由による。(…)ここまでなら古典的計算主義者も大方のコネクショニストも同意してくれるだろう。同意しないのは、知的で適応性に富む行動のためには表象は必要ないと主張する一部のラディカルなロボット工学者や彼らに賛同する哲学者くらいのものである。
(『心の科学と哲学』(序章の戸田山和久パート) p.17)

*1:命名の儀式から始まる因果の鎖が固有名による指示を可能にしてるってやつ

*2:これに対する見解のひとつにルース・ミリカンの目的意味論がある