ピーター・ディア『知識と経験の革命―科学革命の現場で何が起こったか』

訳者あとがきによれば、著者ピーター・ディアは世界的な科学史研究誌『Isis』に掲載された論文を精選して編集することを委託されたりと厚い信頼を受けている科学史研究者で、現在はコーネル大学で科学史・科学技術論を講じている。2001年刊行の本書は翌2002年にアメリカ科学史学会からWatson Davis and Hlen Miles Davis Prizeなる賞を受賞しているとのこと。

歴代の受賞作↓
http://www.hssonline.org/about/society_davis.html

本書は1500〜1700年の200年間の科学革命を扱った一般読者向けの科学史・哲学史

長年にわたる古典的な科学革命観はというと、それまでの時代の魔術的なるものを一掃した(テレレッテレ〜☆ みたいなイメージだったが、本書によれば実際はもっと事情は複雑だったようである。神学や錬金術といったものは18世紀に入っても科学革命の担い手の間で残り続けたし、当時の政治状況やパトロンからうけていた庇護関係などからモロに影響を受けていたこともわかってきている。


科学史なんか読むとアリストテレスデカルトが重要人物として出てきて、アリストテレスだったら海の生物の観察・解剖したりといったことが書かれてて、血液循環論のハーヴェイやらダーウィンアリストテレスにリスペクトを表明したりしておりますな。中世〜初期近代のスコラ主義の人たちはそういうアリストテレスの生物学っぽい仕事(著作でいうと『動物誌』あたり)は軽視して、もっぱらアリストテレスの、論理的になぜそれが起こったかの説明を与える、という今からみても哲学っぽい仕事(著作で言うと『形而上学』あたり)に注目した。

天文学とか医学とかで数学的・量的な研究も行われていたけれど、それは自然本性について「説明」を与えることができないとして軽視されてきた。だけれども技術の発達やらヨーロッパ人による新世界への海外進出やらで、説明されるものが最初から確立しているスコラ-アリストテレス的世界観ではいかんともしがたい事例が出てきて、新たな発見に満ちた探求されるべき巨大なフィールドとしての自然界に目が向けられるようになるわけだ。

しかしその内実について細かくみていくと、科学革命の担い手たちは、まだまだスコラ-アリストテレス的性格が残っていたし、哲学という呼び名にこだわって自分のやってる営みこそが哲学だと認識していたし、実験的探求が広い支持を得るため王や貴族といった権威に擦り寄ったり*1、泥臭い事情がみえてくる。
フランシス・ベイコンは法律家でもあり、自然哲学を国家と中央集権的制御との利害関心に合うような改革として進めたとか、他にも──後の合理的経験論を強調する「ニュートン主義者」が結果的に隠してしまったのだが──ニュートンの主要な関心が神学と錬金術だったことなど、古典的な科学革命観に揺さぶりを与える歴史記述が本書にはデデデーンと載っている。

ここからいきなり相対主義(科学哲学的な意味で)に流れるのはさすがに単純すぎると思うけど、先端の研究を誰がどの程度支援するかという問題は現代まで貫いているし、デカルトアリストテレスからホッブズライプニッツといった、現代からみてジャスト哲学者な人もわさわさ登場するし、科学技術の倫理学がホットなトピックな今(ぼくが勝手にそう思ってるだけかもしれない)、幅広く読まれたらいいじゃないとアタイは激しくレコメンしておきますお。

知識と経験の革命―― 科学革命の現場で何が起こったか

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認識論を社会化する

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*1:ニュートンの『プリンキピア』はエドムンド・ハレーのポケットマネーで出版したそうだ。フランスの科学アカデミーと違いロンドン王立協会は国家から交付金を受け取っていなかったなど国ごとの違いも面白い