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フランソワ・レカナティ『ことばの意味とは何か』

レベルの高い分析形而上学の議論をTogetterとかで読むと論理学べんきょうしたくなるのである。というわけで今度問題集でも買ってこよっかな。


さて、本書は「フランス」で「現代」で「哲学」ですが「フランス現代思想」ではありません。
著者であるフランス出身のフランソワ・レカナティはヨーロッパ分析哲学会設立者の一人で、ある時期はその会長もつとめた人。

本書が扱ってるのは自然言語意味理論〜語用論で、東京での講演やスペイン分析哲学会での講演を基にしているようですね。

ヨーロッパ分析哲学
http://www.dif.unige.it/esap/

本書はフレーゲ、ダメット、グライスといった分析哲学の偉人の豊かな成果を独自の語用論に取り入れたり検討を加えたり、語用論的に興味深い例文を豊富に使いつつ、明晰で周到な議論を展開してる。

レカナティはルース・G・ミリカンやタイラー・バージのように、伝達というものは本質的に推論能力から構成されているものではないという見解をとる。ただし、レカナティは「言われていること」と「含意されていること」にわけ、後者へは推論を使って至ると考える。
図にするとこんな感じ*1

(1)文タイプの意味的潜在性……規約に基づいておりコンテクストはほとんど関係なし。完全な命題を構成しない。
(2)言われていること……(1)に(例えばheやhereに)肉付けしたもの。(1)に制約されている。命題を構成しうる。
(3)含意されていること……(2)からの推論によって、多くの背景的想定を含んでいる。(1)に制約されない。情報の量には上限がない。

たとえば朝に「何か食べますか」と聞かれて「私は朝食は済ませました」と答える場合。
「私は朝食は済ませました」という文は、字義主義よりの立場的にはs(話し手)がt(発話の行われた時点)以前に朝食を食べたという命題を表現している。
だから20年前に朝食を食べたきりそれ以来ずっと朝食を食べたことがなくても真になる。これは明らかに「言われていること」ではない。
「言われていること」はもっと特定的なこと、まさにその日朝食を食べたことを意味しているのだ。
さらにそこから「空腹ではないので、食べ物を出す必要はない」という含意を推論できる。

背景的想定やコンテクスト成分には、期待感、社会や少数のグループに共通の経験、媒体の形式、伝統的な表現法、流行の漫画や映画のセリフなんてのまで関わってくるかもしれない。さらに、「字義的に(規約的意味からほとんど離脱しないように)読ませるように働くコンテクスト」というのもあるだろう。

推論には、注意深く段階を踏みながら行うCEO推論(conscious、explicit、occurrent)の他に、ヒューリスティクスといわれる素早い(が間違いやすい)推論があることはレカナティも認めているが、「前提と結論の間の関係」の接近可能性は満足されているとして第二次語用論プロセスとする。

第一次語用論プロセスには、例えば、シェーマが使われる。シェーマとは過去の経験から生まれた、ある表現がそれと関連をもつ表現を呼び起こす、そのセット、図式のこと。またダンスペルベルのいうように第一次的意味は後から情報を得て解釈を見直すこともありうる(見直し効果)。

ジョンは昨日警官に逮捕された。彼は財布を盗んだところだったのである。

この文から財布を盗んだ候補は「警官」と「ジョン」が考えられるが、[盗む→逮捕]というシェーマによってジョンの表示がより強く活性化され、よりよい候補として選択されることになる。

また、状況から考えて明白に事実の逆のことを言ったり、第一次的でありながら文の規約的意味からの最小限ではない離脱を示す例が語用論の論考の中にはごろごろある。
レカナティはこの一次的意味の内的二重性が(使用者に認識されている限りにおいて)メタファーやアイロニーであると考える(「いい趣味してるね」とか。この場合目線や表情もコンテクスト成分に含まれている……ってことかな?)。

たとえばシェーマとシェーマを状況に(部分的に)当てはめた結果つくられる意味との間に不釣合いの感覚を生むことがある。
それは我々が慣れ親しんだ例(「パソコンがスリープする」とか)から非字義的性格が嫌でも目に付くものまで様々ある。
その中でもある閾を越えたものが特殊なケース、例えば「比喩的な」使用とみなされるというわけだ。

慣れ親しんだメタファー(パソコンがスリープ)と、不釣合いの感覚が原因となってメタファーだとはっきり意識されたメタファーとの区別についてはRenate Bartschという人がThe structure of word meaningsという論文でやってるので興味があったら読むように、とのこと(拙者は未読でござる)。

その都市は眠りについていた。

これは「眠りについていた」のほうを字義的に取れば[人間や動物→眠る]のシェーマによって、都市は「都市の住民」という意味に受け取られることもあるし、「都市」のほうを字義的に取れば「静かで(経済活動など)ほとんど活動していない」という意味価になる。あるひとつの構成素の解釈の仕方は、他の構成素の解釈の仕方に影響を与えずにはおかないのだ。


というわけでレカナティの意味論〜語用論を簡単に紹介してみたが、やはり字義主義からの反発は強いかもしれない。わざと文の規約的意味からかなり離脱した解釈をして「お前の言ってることはこういうことだろう!!」とかね。
レカナティは、いかなる場合もことばは確定した内容を持たない、のような主張をしているわけではないのであるが。本書ではデイヴィドソンの真理条件的意味理論を批判したり字義主義寄りの論者(レカナティの立場とごりごりの字義主義との間には様々な中間的立場があり本書で扱ってる)からの「意味的内容はもっと安定性があるのではないか」という反論に答えているので「納得いかねえ」という方はレカナティの見解に挑んでみては。


ことばの意味とは何か―字義主義からコンテクスト主義へ

ことばの意味とは何か―字義主義からコンテクスト主義へ

*1:サブパーソナルというのは血液循環や肝臓によるアルコール分解のように本人の意思によって左右できない意識下の事柄。