ドミニック・オフレ『評伝アレクサンドル・コジェーヴ―哲学、国家、歴史の終焉』
フランスのヘーゲル受容に興味があったので読んでみまつた。
著者のドミニック・オフレは1958年生まれの精神分析家で、本書の原典はパリ人文社会科学アカデミーのジラルド賞というのを受賞しているのだそう。
8925円673ページの大著で(おれ新品で買った)、前提知識として大陸哲学系の議論と20世紀前半の国際政治史についてある程度通じてないと読み通すのはきついかな。
↓フランスでもあまり読まれてないんだろうか。
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1933年から6年間にわたるパリの高等研究院でのコジェーヴによる「伝説の」ヘーゲル講義にはバタイユ、クロソウスキー、ジャック・ラカン、メルロ=ポンティ、レーモン・クノー、ハンナ・アーレント、岡本太郎といったメンバーが受講生として名を連ねており、フランス現代思想の源流のひとつと言われたりしている。
「ラカンがヘーゲルについて述べていることでコジェーヴから得られたものでないものは何ひとつ存在しない」エリザベート・ルディネスコ
「一世代全体にまったく途方もない知的支配」ロジェ・カイヨワ
コジェーヴの死の数日後にヴァンヴの彼の自宅に闖入したラカンは、慌てふためきながら遺稿を掻きわけ、何物かを探しまわった。(…)遺稿を整理してみると、『ヘーゲルとフロイト 解釈的対比の試み』を主題とするコジェーヴのテクストは数ページしか存在していなかったことが確認できた。そうとあれば、ラカンがヴァンヴへ行ったのは――エリザベート・ルディネスコが示唆するように――ただ「コジェーヴ自身の手になる注の書き記された『精神現象学』を一冊手に入れる」ためではなかったのか、とすら推測できよう。(pp.6-7)
ルディネスコはコジェーヴがラカンにおよぼした影響を強調しており、これはジャック=アラン・ミレールも受け入れているようだ。
コジェーヴの提起した主題がラカンの基本図式形成におよぼした影響には目をみはるものがあり、(…)欲望の弁証法、および支配者と隷属者との弁証法、この二つの弁証法はラカンが現実的なもの、想像上のもの、象徴的なものという三つの次元を形成するときに本質的な役割を演じてもいる。(p.542)
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コジェーヴは1902年モスクワで大ブルジョア階級に属する家に生まれ、青年期までロシアエリート教養層の特権的な教育を受ける。
1919年にモスクワ大学に進学しようとしたところ、ロシア革命直後の新大学政策で望むように勉学にいそしむことが困難となり西欧へ亡命することに決める。ちなみに本人は共産主義者を自称し、1950年頃までスターリンを崇拝している。
若い頃から東洋思想に関心を持ち、1920年にはキリスト教倫理と仏教倫理の比較分析なんてこともやっている。そのためかハイデルベルクでは東洋思想に精通していたヤスパースに師事、その後ベルリンに向かうが、ベルリンではリア充ライフというか欲望のおもむくままに浮薄で快楽に耽る生活を送っていたそうだ。この人こういうプレイボーイなエピソード多い。
思いがけず財産の一部を取りもどすことができ、それによって亡命の理由自体を隠せるようになっていた。コジェーヴは結果として、にわかブルジョアになりすまし、金銭の力を味わうことに決めたのである。(p.184)
1926年にはフランスに移り住み、著名な科学史家アレクサンドル・コイレの弟の妻であるセシル・シュタークを寝取って結婚する(それ以来コイレとは親しくなる。←兄としてその反応おかしいだろ。。)。
パリではコスモポリタン的大ブルジョアのような暮らしぶりで、ヘーゲル哲学のほか数学や物理学の勉強を始めるが、これは科学史家でありつつヘーゲル研究者でもあったアレクサンドル・コイレの影響と思われる。1933年には『古典物理学と現代物理学における決定論の概念』なんて論文も書いている。
コジェーヴはコイレのヘーゲル講義に規則的に出席していたが、やがてコイレがカイロ大学で連続講義をおこなわなければならなくなった時、コジェーヴに自分の仕事を継ぐよう提案する。「伝説の講義」はこうして始まった。当時コジェーヴは31歳で、一夏の間準備をしただけで、コジェーヴより年長の者も多い聴講者の前に立たなければならなくなった。彼は自分が成功するか否かがこの聴講者にかかっていることを自覚する。本書ではこの講義中のコジェーヴの心境が詳述される。
彼は自分の真のヘーゲル註解が自分自身には信じがたいものであるということを注意深く、故意に隠した。(…)コジェーヴは、大胆にも、実際には信じがたいと判断したことを自分自身にとって絶対的に真実のものとして押し通した。そう押し通す過程で彼は持ち前のアイロニーや戯れの精神や舞台効果をねらった演技を縦横に発揮したのである。コジェーヴは1939年にセミナーが終わるまでこの偽装を押し通すことができた。(p.343)
ラプージュとの対談で本人はこうもいってる。
「実を言うと、私もまた最初それは空言だと思った。だが、後でよく考えてみて、卓抜な考えだということが分かった。ただ、ヘーゲルは百五十年ほど間違っていた。歴史の終焉をもたらした者は、ナポレオンではなく、スターリンだった。」(p.351)
トラン・デュック・タオに送った書簡では
「私には聴講者の精神に衝撃をあたえようという意図があったので、講義は本質的にプロパガンダの性格をもった。支配者と隷属者との弁証法の役割を意識的に強調したのは、そのためである。」(p.362)
セミナー後、1945年コジェーヴは国民経済省へ入省。ヨーロッパ政治経済圏の統合や開発途上国のために奔走する。
なぜなら「歴史が終焉」した後は哲学者は活動家となり国家の高級官僚として行動しながら君主に助言しなければならぬと考えていたから。
1960年代はGATT(関税および貿易に関する一般協定)や国連貿易開発会議を舞台に活動を繰り広げる。
実践に移ったコジェーヴはこの確信のなかでいまだ突きつめていなかった部分を利用して、共産主義の目指すものは他ならぬ資本主義的な消費社会であると主張することになる。(アメリカ合衆国はソ連の共産主義が究極段階に到達した姿であり、ロシア人はいまだ貧困を脱却できぬアメリカ人として表現される)(p.487)
常識的に考えて何かが混乱してるとしか思えないが、コジェーヴは(車の)フォード的な資本主義を理想として「フォードは二十世紀において只一人の優れた『正統』マルクス主義者であった(p.489)」と語っていたこともあった。
するとコジェーヴはリバタリアニズムということばを知らないリバタリアンだったのか?なんて考えが浮かんでくる。
否。「純粋な自由主義は時代錯誤」と語っているし、また可能な限り関税は撤廃するべきだと考えていたが貧しい国には適用できないとも考えていた。
ヘーゲル講義とは文脈が異なるが1955年にはコジェーヴはベンヤミン、シャンタル・ムフあたりの政治思想にも影響を与えたカール・シュミットとも往復書簡をしており、シュミットは「歴史の終焉」について異議を唱えつつも、「国家性の時代の終わり」については同意したという。
コジェーヴの「歴史の終焉」の議論の影響は海を越え(分析哲学の流れとは別に)現代のアメリカや日本の思想・哲学にも及んでおり、市場原理主義を肯定するために援用されたりする(彼らには例えばケインジアン的な知についてどう思うかちょっと聞いてみたいところ)*2。
このように、戦後フランス思想に絶大な影響をもったコジェーヴであるが、彼の死後、70年代以降「コジェーヴ流ヘーゲル」を『精神現象学』の文脈を離れた「俗流ヘーゲル主義」として批判する流れも生まれている。ラバリエールとジャルクチィックといったヘーゲル研究者はその代表で、現代フランスのヘーゲル主義の過誤を精力的に指摘している*3。
さて翻って日本の事情をみるにあまり他所事だとは思えない。大陸系思想の伝統の流れを汲む日本でこそ本書は一際価値を持つといえるのかもしれぬ。
コジェーヴの交流・影響の広汎さについて本書以外では以下で垣間見ることが出来るよヽ(・∀・)ノ
・合澤清/滝口清栄 編『ヘーゲル 現代思想の起点』
・岡本裕一朗『ヘーゲルと現代思想の臨界 ポストモダンのフクロウたち』
・ヴァンサン・デコンブ『知の最前線―現代フランスの哲学』
・ヤン・ヴェルナー・ミューラー『カール・シュミットの「危険な精神」 戦後ヨーロッパ思想への遺産』
・田中純『政治の美学―権力と表象』
・大竹弘二『正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序』
・レーモン・アロン『回想録』1・2
・J・P・サルトル『方法の問題』
・港道隆『現代思想の冒険者たち レヴィナス 法-外な思想』
・エリザベス・ヤング=ブルーエル『ハンナ・アーレント伝』
・ジャック・デリダ『マルクスの亡霊』
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