『シリーズ 新・心の哲学Ⅰ 認知篇』

勁草書房から出ていた「シリーズ心の哲学」の新シリーズが登場。とりあえず「Ⅰ」だけ読んでみたが、ここ数年の哲学的・経験的探求の成果が取り入れられ、概念の理論や他者理解などホットなトピックも抑えてあって、タイトルに偽りのない一冊になっている。読書案内も充実で以前からもっと紹介されればいいのにと思っていたマシェリプリンツ、スタインなどの名前があってムネアツでした。


1章 概念の構造とカテゴリー化
フレーゲの概念的なものについてのプラトニズム(野本和幸『フレーゲ哲学の全貌』pp.221-222)とか、そういう話とはレベルを異にする問題として、概念の内容や構成要素は何かという問題があって、本章では後者について論じられる。
分析哲学の古典的な概念観である古典説(定義説)では概念を、その必要十分条件から成り立つものとして捉える。たとえば「知識」の概念を古典説的に分析すると、

1.Aは「Xである」と信じており、かつ、
2.Aの「Xである」という信念は正当化されており、かつ
3.「Xである」は真である。

といった具合。ちなみに古典説への疑念の萌芽はクワイン『二つのドグマ』やウィトゲンシュタイン『探求』にすでにみられる。
「概念分析は必要十分条件を求めることをしているわけではない」という方もおられるかもしれないが、そういわれると「ではあなたは概念についてどんな説を支持しているのですか?」と聞きたくなる。

カナダで最新の分析系認識論や実験哲学を学んでいらっしゃった笠木さんも同様のことを仰っていた。
twitter.com/kasa12345/status/459334621004451840

本章では概念を個別の事例の記憶表象として捉える実例説(Medin & Schaffer 1978; Medin et al 1982)、そのカテゴリーの事例がもつ傾向のある(必要十分条件とは異なる)属性の表象のセットとして捉えるプロトタイプ説(Rosh & Mervis 1975)、概念原子論(Fodor 1998)、長期記憶の中の知覚表象ネットワークの一部が短期記憶において一時的に活性化したものと捉える概念経験論(Prinz 2002)、概念なる用語は(心理学からは)消し去るべきだという概念消去主義(Machery 2009)などなど概念研究の現在の動向を知ることができる*1

古典説が放棄されても、概念分析という営みは何らかの形で残るかもしれないが、見解によってはだいぶ様変わりすることになるかもしれない(概念消去主義だとおそらく概念分析という営みも放棄される)。最後に、お前はどうなんと聞かれれば自分としては実例、理論、プロトタイプを使いつつも概念という用語の説明上の有用性から消去主義はとらない、というウェイコフの見解(Weiskopf 2009)をさしあたり支持したいところ。


2章 思考について考えるときに言語の語ること
本章の著者は自然科学者であり、本書におけるダークホース。といっても古典から実験哲学まで、そんじょそこらの哲学研究者よりずっと哲学に通じている方です。だいたいデカルトアリストテレスが哲学者と呼ばれるなら本章の著者を哲学者と呼んでいけない理由もないような気もするがそれはさておき、哲学的自然主義者って脳科学の話するんでしょという一般イメージ(?)に反して実はembodied cognitionとか「環境」とかにいきがちな日本の哲学的自然主義界隈なのであるが、本章では統辞処理だったり「側性化ウォーフ効果」と呼ばれる現象についてのエキサイティングな頭蓋の内側の研究の最新の成果を紹介し、それらが含意する、哲学理論にも揺さぶりを与える(たとえば指示理論とか)であろう、思考と言語の関係について論じられる。


3章 思考の認知科学と合理性
心理学において迅速で「誤りやすい(とされてきた)」推論=タイプ1(あっ…(察し)みたいなやつな)とゆっくりとしたより正確な推論=タイプ2の二つが措定されていることはよく知られているが、タイプ1の推論能力が持つ文脈依存性を社会的場面を含めた生存環境において適応的であるとしてタイプ1を優位に置くギーゲレンツァーの生態学的合理性(Gigerenzer 2000; 2007)や、いやいや高度に発達した現代文明ではタイプ1だけでは不十分だよ、というスタノヴィッチの「自動的精神」「アルゴリズム的精神」「反省的精神」から構成される三部分構造モデル(Stanovich 2010;2012)などなど合理性の議論の最先端が読める。「小難しい用語使ってるけど昔からよくある議論じゃないですか」なんて人もいるかもしれないけれども思弁的なものではなく綿密で地に足のついた議論を展開しております。


4章 自己知と自己認知
「自分のことは自分が一番分かってるでしょ、当然」と言う人もいるだろうけど、小学生のときクラスの女子からかったりして卒業した後で「ああ、あのこのこと好きだったんだ」と気づいたり、食欲ないと思ってたけどいったん食べ始めたら箸が止まらなくなったりとか、こんな経験はないでしょうか。本章は面識説、内的知覚説、自己解釈説といった自己知の諸理論を検討し、最後に解釈主義の立場から合理性説を主張。「自己解釈を介さず成立する(それゆえ自己解釈説とは異なる)自身のコミットメントのある命題的態度」というのがいまひとつピンとこなかったけれど。

5章 他者理解
他の人が何考えてるかについてわれわれはどうやって理解してるのか、が主題。挨拶されたらわざわざ「推論」なんてことするまでもなく挨拶し返すし「こいつどういうつもりだ?」とじっくり考えるときもある。振る舞いや表情などから推論しているのだという理論説や「自分がああだったらこう思うだろうな」というシミュレーション説があり(そもそもこの2つ区別可能なのかという議論もある)、さらには命題知/技能知、知的理解/共感的理解、パーソナル/サブパーソナルなどなど他者理解の諸理論・諸概念は大変入り組んでおるのだがそれらをすっきり整理してくれる明晰な叙述に感服。


以上、心の哲学や心理学に関心のある読者だけでなく様々な分野の研究者にも読まれてほしい(例えば3章は経済学者などに)射程の広い一冊となっておりますぞ。

勁草書房の商品ページ
http://www.keisoshobo.co.jp/book/b177186.html

シリーズ 新・心の哲学I 認知篇

シリーズ 新・心の哲学I 認知篇

*1:本書ではじっさいにはプロトタイプ説のような心理学者の研究するカテゴリー認識とフォーダーが取り組む概念の内容の研究は、関連してはいるものの、厳密には違う問題だとしている。