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ジョン・サール『「事実」から「当為」を導く議論について』

ジョン・サール言語行為』の第八章『「事実」から「当為」を導く議論について』で
ヒュームにはじまる、事実(である)から当為(べし)を導けないというアレにサールが挑んだおはなし。

最近では自然科学者が自然科学的な知見を援用して政治的な主張をする時にSTS的な考えを持った方がストップをかけるというシチュで「自然主義の誤謬」として持ち出されることが多い印象。

ただサールはisもoughtもありふれた語で、とりたてて倫理学固有の問題ではないと述べている。

野球で盗塁に失敗して審判員が「アウト!」と叫んだとき、「記述的陳述からは私がベンチに戻るべきという評価的陳述を帰結することはできない」と述べて二塁ベースから離れなかったとしたら、誰もがおかしいと感じるだろう。でもこのケースは「約束」なんかと原理的に異なるところはない、てなことをサールは述べている。

そんなサールが事実から当為を導けるとした論証がこちら。

(1)ジョーンズは「スミスさん、あなたに5ドル払うことを私はこの言葉において約束します」という言葉を発した。
(2)ジョーンズはスミスに対して5ドル払うことを約束した。
(3)ジョーンズはスミスに5ドル払う義務を自分に課した。
(4)ジョーンズはスミスに5ドル払う義務がある。
(5)ジョーンズはスミスに5ドルを払うべきである。

サールは古典的な見解の行き詰まりを「構成的規則」というタームの導入とお得意の言語行為を用いて突破しようとする。

サールによれば「約束をするということはある義務を引き受けることである」という構成的規則を介することで、「約束する」という語を発することが言語行為となり、5ドルを払うべきであるという結論に達したことになる(もちろん義務というものが様々な仕方で破棄されることはあり得る。義務の存在は義務を引き受けた時点で保証される。)。

自然科学的知見を援用して政治的・道徳的な主張をしている人がいてどげんかせんといかんかったら「その構成的規則を私は共有してません」とかなんとか言っとけばいいのかもしれない。サール的に考えて。(SK)

構成的規則はいつどのようにして生まれるのか。すでに作られた構成的規則を介するならともかく新しく構成的規則が作られた時問題はなかったのか。
疑問は尽きないが1969年と古いごほんなので、現在はこのサールの見解を乗り越えた見解をさらに乗り越えた見解とかそういう段階に達していることだろうな、ということで「事実→当為」についての議論を知りたいならもっと新しい文献を探すことをおすすめする(じゃあなんで紹介したんだよという突っ込みはナシの方向で)。

言語行為―言語哲学への試論 (双書プロブレーマタ)

言語行為―言語哲学への試論 (双書プロブレーマタ)