ラリー・ラウダン『科学は合理的に進歩する』

まずはこの邦題に注目されたい。

『科学は合理的に進歩する』

人文学に親しんでいる方なら、タイトルを見ただけで、パラダイム間の共約不可能性とか現象レベルのデータから理論は一つに決まらないという決定不全性だとか、はたまたSTSでもSSKでもなんでもいいが科学○○学を援用してなにか一言言いたくなる衝動に駆られるのではないか。
でもこれ原題は『Progress and its problems(進歩とその諸問題)』で、科学史から生きた事例をふんだんに引いて、相対主義陣営と合理主義陣営それぞれのいささか現実離れしたモデルを批判的検討し、現実に即した科学の進歩と合理性のモデルを構築しようという穏健で堅実な一冊なのですな。
ラウダンの基本的な立場は「科学哲学のテーゼは科学史によってテストせよ」であって、科学史から多くの具体例が出てくるので読み物としても楽しい。しかしそういうアプローチは科学哲学を単に記述的なものにしてしまい批判能力を奪ってしまうのではという声もあろう。しかしラウダンは直観を使う局面がなくなるわけではないという。

ちなみに1977年つまり40年も前に書かれた本なのでその辺も現代の基準を押し付けるのではなく(ラウダンの歴史的アプローチのように)当時の状況を想定しつつ読まれたい。

 

 

 

 第1章 経験的問題の役割


・そもそも科学哲学者の言う相対主義 #とは
競争する理論同士でどちらが優れているか合理的かつ客観的な方法で決めることはできない。教条(ドグマ)やイデオロギーと同じくたまたま人を惹きつけるような有力な宣伝家を味方につけた科学理論や研究伝統が生き残ってきたのだ、という考え方(ちなみにクーンは中立的な観点から優劣を判定できるということを認めている)。

本書の書かれた1977年はそれまでの合理主義的モデルが現実と合わないということも分かりつつあり新しく勃興した相対主義はそれなりに説得力を持っていた。さてどうしよう。

(1)ポパーやカルナップのモデルに小変更を加えればそれでよい。
(2)合理性のモデルを追究するのは無益だ。あきらめよう。
(3)科学の持つ合理性を改めて分析しなおそう。

ラウダンによれば(1)と(2)にここ十数年涙ぐましい努力が行われてきたという(1977年時点)。特に科学哲学者は(1)を取ることが多かった。(2)は歴史に関心を抱く思想家の間で支持された。
ラウダンは(1)は将来性に乏しく(2)は時期尚早であるとして(3)の方策を押し進める。

ラウダンはまずこれまで科学哲学者は、あまりに科学を真か偽かの探求として捉えすぎてきたと述べる。実際は、科学者は外界についての真なる表象(理論)を手に入れるために活動しているというより問題解決のために活動しているといえる。
この2つは似ているようだが「問題を解くこと」は「真なる表象を得ること」に還元されえない。

問題解決が目的ならば理論的結果と実験的結果との間に厳密な一致がある必要はなく、単に近似的な類似があれば事足りるがために経験的問題が解決されることは科学史ではたびたびあるからである。これは科学が「人々を豊かにする」とか「病気を治す」のような生活に実際的に関わっていることも関係する。

ある理論が特定の問題を解決するか否かを決定する際には、真か偽かといったことを考慮する必要はないし、一般に科学者も考えていない。


ラウダンは第1章で科学理論の合理的評価という文脈でいかなる因子が問題の重みづけに影響を与えるのかを分析している。

問題の重みづけに影響を与える因子の例
1変則例の解決…ニュートンによる地球の形状やスペクトル延長部の説明、ダーウィンによる家畜の育種実験の説明、アインシュタインによる光電効果の説明
2原型形成…フランクリンによるライデン瓶の説明
3一般性…いかなる二つの問題p'とpに対して、p'のいかなる解決もpの解決とならなければならない(しかし逆は成立しない)ならば、p'のほうがpよりも、より一般的でありそのため大きな価値を持つことになる。

またかつて重要と思われた問題がそうでなくなることもある。
カール・ポパーは一つでも変則例を持つならその理論は真剣な科学的考察の対象となる価値はない、と主張した。

しかし…

実質的にほとんどの理論はおしなべて変則的な事例を持っている。そして理論の変則例の重要さは時と状況次第で大きく変化する。例えば代わりの理論がないなら科学者はその理論を捨てようとしないこともある。
ラウダンは「ある理論の変則例の重要度を評定することも、領域内の他の競合理論の文脈の中でなされなければならない」と主張する。
物理化学者と比べると、宇宙論や地質学者は理論的予測と実験結果の食い違いに対して小さい意義しか付与しない。分野によって許容精度が異なるのだ。しかしこれは許容限界が恣意的であることを意味しない。測定器械上の制限や数学的制約を、探求下の過程の持つ複雑さとともに反映しているのである。


第2章 概念的問題

科学の歴史をほんの一瞥しただけでも、科学者たちの主要な論争は経験的なものと同じくらい非経験的な論議に重きを置いてきたことがわかる(ファラデーの相互作用理論、分子運動理論などなど)。例えばプトレマイオス体系が現象レベルで予測を行うには申し分のないものであることは批判者も認めていたのである。経験的な支持こそが唯一にして正規なる判定概念であると考えている実証主義者は概念的な論争を空虚で非合理な水掛け論とみなしてきた。

ラウダンはここで概念的問題を2つに分ける。


1.内在的概念的問題(理論Tは矛盾している部分があるよ等)
2.外在的概念的問題(領域を異にする2つの科学理論が緊張状態にあるよ等。例;アダムスミスの経済理論とニュートン的主張)

これまで哲学者や科学者は科学的推論にふさわしい様式に関して定式化を試みてきた。

17C…数学的、論証的(デカルト
18C~19C初期…帰納的、実験的(ベーコン、ロック)

決して驚くに当たらないが、どの時代にも支配的で規範的な科学の像を1つないし複数認めることができる。これらは多くの概念的問題の発生源であった。

18世紀まで支配的だった帰納主義だが、電気学や熱理論、流体力学、化学、生理学などで知覚不能の粒子や流体(つまり観察されたデータから帰納的に推論できない存在)の実在を仮定する理論が現れつつあった。
これらの新しい理論が帰納主義的方法論の研究伝統と共存できなかったことは、根深い概念的問題を生んでいた。

これらの理論を排除せよというニュートン主義者もいたが(主にスコットランド学派)、他のニュートン主義者は規範自体を利用しうる最良の物理学理論と合致するよう変更するべきだと主張した(ルサージュ、ハートリ、ランベール)。
後者のグループによって作り上げられたのが仮説演繹法である。

第3章 理論から研究伝統へ

・理論 #とは
1.実験的予測をしたり自然現象の説明をしたりするための関連教義(仮説、公理、原理)の特定の一群を指す(マクスウェルの電磁気理論、ボーア=クラマ―=スレーター理論、労働価値説など)。
また、
2.理論という言葉は非常に一般的であり、容易にはテストしがたい一連の教義あるいは前提を指す場合にも用いられる。

・研究伝統 #とは
その研究領域内の問題を究明し理論を構築するために相応しい一群の存在論や方法論的な規範

もしその研究伝統の存在論が遠隔作用力の存在を否定するならば接触を伴わない作用に依存するどんな特定の理論も受け入れられぬものとして排除することになる。
ホイヘンスライプニッツなどの「デカルト主義者」がニュートンの天体力学を全く不要と考えたのもまさにこの理由からであった。

3章では、ラウダンの研究伝統とほぼ同じ物を指すラカトシュの「研究プログラム」やクーンの「パラダイム」の批判的検討が行われる。
ラカトシュは研究プログラムの堅い核(ハードコア)は変更されることがないとしたが、例えば初期デカルト主義と後期デカルト主義(ベルヌーイ等)そして初期ニュートン主義と後期ニュートン主義(マイケル・ファラデー)はそれぞれ著しく違っていたし、マッハとフレーゲニュートン主義のほかの要素のいずれも時間と空間の絶対性を必要としないと主張した後、これらの概念はニュートン主義の研究伝統の周辺部へと明らかに移動したのであった。

また科学者はしばしば二つの異なる互いに矛盾してさえいる研究伝統に代る代る属して研究を行うことがある。これは昔の科学哲学からすれば非合理な行動ということになってしまう。しかしこれは不合理なのではない。科学者たちには自分たちが受容していない理論に基づいて研究する充分な理由があるのである。

また、パラダイム間の共約不可能性については、ニュートン主義者もデカルト主義者も自由落下について語ったが彼らは同一の問題を解いていることを認めていたように、2つの研究伝統で共有された問題はすべてではないにせよ多く存在したとラウダンは指摘する。

4章 進歩と革命

・科学の進歩 #とは
ヒューエル、パース、コリングウッドポパー、ライヘンバッハ、ラカトシュ、シュテークミュラーまで共通して
進歩の必要条件を「理論T2が理論T1の解決したすべての問題を解いていなければならない」とした。
しかしこの進歩のアプローチは効力を持たない。科学史でこの必要条件が満たされることが稀だからだ。
アナーキー科学哲学者ファイヤアーベントが正しくも指摘したように古い理論が新しい理論と置き換わるときは、通常、問題の獲得ばかりではなく問題の損失も伴うのである。
ラウダンは経験的問題に相対的重要度があることを認めることによってこのような状況を処理できると主張する。

こうしてラウダン

(1)比較的多くの重要な問題を解決する理論がより進歩しているといってよく、
(2)特定の研究領域においてその時代で最も高い進歩を示す研究伝統を受容することこそが科学の合理性であるとしつつ、
(3)合理性を成立させている特定の因子の多くは時代や文化に依存するという事実を許容し、

後知恵で現代の合理性の基準を押し付けることを回避しつつ過去の理論についても合理性の基準を用いて規範的に語ることができるような柔軟で現実に即したモデルを提案する。

5章以降は応用編

第7章 合理性と知識社会学

科学社会学者はよく科学的信念は歴史的・社会的に決定されるという主張を行う。
しかし、我々が厳格な社会決定論を避けるのであればどのような種類の信念が社会学的分析の対象となり、そしてどのようなものがそうならないか、という問題に直面することになる。
ラウダンは「社会学者は教科書的な帰納主義を神聖で最終的なものと決めてかかったため思想史の多くのエピソードを非合理(それゆえ社会学的)だと考える傾向をもってきた」となかなか手厳しいが、ラウダンのモデルからは説明できないようなケース

1進歩を示さない理論を追究するとき
2変則例を本来以上に大きいか小さい評価を与えるとき
3同じくらい妥当な2つの研究伝統から選択しなければならないようなとき

このようなケースでは社会学者や心理学者を仰いで理解を求めねばならない、と述べる。