ポール・ファイヤアーベント『自由人のための知』

科学の相対主義者と言われる人って大抵「私は相対主義をとるわけではない」とか書いてたりするもんなんだけど、ファイヤアーベントという人は相対主義を引き受けてるわりと珍しい科学哲学者で、本書は自伝もちょっと入ってるとはいえポパーdisってヘーゲル擁護したり、演劇のエピソードを例証に使ったりともはや英墺系の哲学から遠く離れて状態。構造主義レヴィ=ストロース『野生の思考』も参照したりしているが「彼はいいセンいってたが徹底してなかった」みたいなことを書いてたりする。


本書では対象も科学について論じてるというよりむしろ政治哲学なんかに近い。まず「倫理学者は過保護な親みたいなもの」と言い切る反パターナリズムな思想があってそれが科学哲学の方法論的アナーキズムにつながっているのだなあ、とファイヤアーベントの思想の全貌が見えてくる。
その反パターナリズムを支えているのはジョン・スチュアート・ミルに負うところが大きいらしく『自由論』をベタ褒めしている。

科学の相対主義ってラフにいろんな意味で使われてて、予測の精度自体を疑う人や、成果が強力であるがゆえに適用の仕方に批判を向ける人とかいろいろいると思うんだけど、ファイヤアーベントは元々学生として天文学や物理学を学んでいた人で予測の精度について懐疑的なわけではなく、実際に科学研究に携わってないのに規則や規範を編み出すポパーやその弟子筋の哲学者が主な批判のターゲットということのようだ。
では科学者の理論選択などの活動がまったくデタラメに行われてるのか、と聞きたくなるが、そうではないとファイヤアーベントは言う。
ファイヤアーベントにとって方法論的規則というのは

1.具体的な科学的研究過程の中から出てくるものであって
2.変化したり相互作用したりする一過性の状態にすぎない

なので、抽象的な合理性理論をとなえる(ポパー界隈の)科学哲学者が批判される。

また、科学者達が非・科学的な伝統より自分たちのほうが優越していると主張すればそこも攻撃の対象となる。
その辺「神学論争のおはこであったあてこすりの方法はそのまま科学に移植されている」とか「現代は科学がビジネスになっている」とか、なんであれ科学に一言文句言いたい人がとりあえず思いつく話法は大体本書に一揃いしているといってよい。
ようは按手療法を信じたいなら按手療法を、科学のほうに信頼を置くなら西洋医学の医師によって治療されるべきで、その判断は専門家が押し付けることではない、という考え方のようだ。


ファイヤアーベントの主張は極端なものばかりで同意できるものは少なかったけど同意できたのは一人の専門家の勧めに従う前に自分でよく調べてみる必要があるってのと、疑似科学批判する際に対象(占星術とか)についてよく知りもせずに権威にすがって批判してると足元をすくわれるぞという主張なんだけど、これは別に非・相対主義と矛盾しないし、その後の線引き問題の辿った道を振り返ると、まあ歴史的役割として必要な人だったのかなとも思うがアドホックは避けよといった規範はファイヤア―ベントが想定しているより安定しているように思えて自分としては例えばラリー・ラウダンの網状モデルを支持したくなる。
今ではもうあまりファイヤアーベントは読まれなくなってしまっているように思えるが科学者がファイヤアーベントの描いたような活動をすれば亡霊のように蘇ってくる、そんな思想家かもしれない。自分としてはできれば過去の人としてじっとしていてもらえればそれにこしたことはないと思うのであるが

 

自由人のための知―科学論の解体へ (1982年)

自由人のための知―科学論の解体へ (1982年)