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太田紘史編『モラル・サイコロジー 心と行動から探る倫理学』

道徳的判断に関わる心理や行動についての記述的探究を紹介しつつ、それが「〜してはならない」や「〜すべき」といった規範を扱う倫理学説にどう関わってくるかを扱うモラルサイコロジーの本。
なんだか倫理学にケチをつける分野なのではと警戒する読者もいるかもしれないがそういう記述はほとんどない。むしろ書き手の多くが哲学者や、哲学に精通している科学者なだけあって倫理学的含意のみならず、そういった科学的知見自体についての概念的考察にもかなり重きを置いている。

出てくる実験の中にはここ何年かのまさにモラル・サイコロジーのために行われた実験もあれば、もっと昔の心理学的実験をモラル・サイコロジーのために再利用しているものもある。心理学の本に親しんでる読者なら、表にアルファベット裏に数字の4枚カード問題とか、最後に答える被験者は周りの人(サクラ)の意見に合わせがちだとか、どこかで目にしたり読んだりしたことのあるものも多いと思うが、道徳の生得説や徳倫理学の概説など日本でもあまり紹介されてない記述ももちろんたくさんあって勉強になる。

私としては心理と倫理を組み合わせることにつきまとう以下のようなテンプレ的な突っ込みに対して著者たちが真摯に考え、答えているところに何より感動する(論文に対して感動ってどうなんだって気もするが)。

ハーバート・スペンサーが…」
自然主義の誤謬が…」
「心理学用語の素朴概念との乖離が…」
「社会や環境による違いが…」
「そのような科学的知見が広まれば社会は今まで通りとはいかないのではないか」

書き手は9人ということで全員がすべてに答えているわけでもないし、説得されない人もいるだろう。もしそうなら反論を考えてみるのもいい。
以下は各章についての読書メモとか簡単な感想。


第1章 道徳的行動の進化的背景

霊長類の行動を進化の観点から研究している著者が人間の利他行動を進化生物学的基盤から考察。血縁者に対する利他行動なら進化学的にもわかりやすい。でも人は会ったこともない人にも寄付を行ったりする。さらに人には道徳規範なんてものがありそれに従ったりする。そして規範は文化によって異なる。それらを進化生物学でどう扱うのか?スタノヴィッチはshort-leash型の制御方式、long-leash型の制御方式という理論的概念で説明する。変化のない環境ならば細かく造り込まれた融通の利かないshort-leash型の制御方式が向いているが、環境の変化が激しいならある程度自由にふるまわせる柔軟なlong-leash型の制御方式のほうが向いている。しかしあまりに自由がきくと個体にとっての利益と遺伝子にとっての利益が一致しないという事態も生じる(例:避妊手段を講じた性交)。ヒトはlong-leash型なので自らが適応すべき環境を自ら作り上げてしまう。例えばカント的な道徳規則に従うことは、必ずしも遺伝子の利益のためにはならないかもしれないが、集団の成員のほとんどがカント的道徳規則に従っていれば、そこではカント的道徳規則に従うことが最も個体にとっての利益になる。読みながら、あまり経験的探究を援用しないアプローチの哲学者や社会学系の研究者が一番首をひねる章かもしれないな、と思った。まあ道徳規範についての進化的考察はまだ始まったばかりで今後の発展が期待される分野であるとのこと。


第2章 道徳心理の進化と倫理

ダ―ウィン以降の進化学と倫理学との関係の歴史を概観する。英米系ならムーアやシジウィックの批判が有名だがプラグマティズム哲学者のデューイも進化学を倫理学に応用することに批判的だったなどの話が面白い。ピーター・シンガーやジョシュア・グリーンによる、道徳判断の感情と推論の二重過程から含意されることとして、直観(感情)に基づく道徳判断は正当化できず、残る功利主義が望ましいという主張の話などなど。


第3章 生まれいづるモラル――道徳の生得的基盤をめぐって

我々の道徳判断というふるまいは誰かのふるまいを見たり聞いたりして学習したものだ、というのはもちろん否定できないとして、果たしてそれに尽きるのだろうか。つまり生まれつき持った能力や知識のようなものがあるのだろうか。言語学では生まれたばかりの他の動物を人の住む部屋で育てても話すようにはならないといったことから(どのような理論で説明するかは見解が分かれているものの)人の言語の生得的な基盤について概ね認められている。そうした知見を道徳の領域に応用した新・生得主義というのが今脚光を浴びているらしい。著者は最近の新しい道徳生得説の動向を概説し、批判的検討を行う。さらには日常概念である「生得性」とはどんなものであるかについて、ステファン・リンキストらによる実験哲学の成果や生物学の生得性概念をめぐる論争を手掛かりに考察する徹底ぶり。最後に遺伝的要因が不変で環境要因が可変であるというナイーヴな遺伝観を捨てた上で、生得的基盤が道徳獲得に対して与える制約については規範倫理学において考察されるべきであると述べる。


第4章 感情主義と理性主義

ホッブズやヒュームにまでさかのぼることができる「道徳判断は(認識論的な)信念ではない」という感情主義。近年は認知科学や神経科学の発展に伴い道徳判断の感情の役割は重視されてきている。といっても実証研究のみによってすすめられるものではなくメタ倫理学との双方向の交流もあり、プリンツのように感情を社会的、文化的、歴史的な観点から統合的に理解しようという試みもあるのだとか。



第5章 道徳直観は信頼不可能なのか

「10人中3人が助かる」→「10人中7人が死ぬ」のように倫理に関する質問の言語表現が変わるだけで直観的判断が変わるというような経験的知見は多数ある。シノット-アームストロングはそのような事実から直観主義を棄却しようとする。著者はシノット-アームストロングの論証を最大限強力なものとして理解したうえで論証の健全でない点を指摘し、直観主義を擁護する議論を展開する。


第6章 道徳判断と動機

若手の多い本書の書き手の中ではベテランである信原幸弘さんの章。道徳判断には動機が必然的に伴うとする内在主義。動機が伴わないことが可能であると示せれば内在主義は成り立たなくなるのだがサイコパスVM患者という事例から内在主義を批判する理論家もいる。内在主義が正しいにしても動機が道徳判断の構成要素と考える構成的内在主義と、動機と道徳的判断は別という非構成的内在主義のどっちが正しいのかという問題が残っている。著者は道徳的判断をミリカンのオシツオサレツ表象を洗練させたものとみなして構成的内在主義を擁護する提案などしている。あまりサイコロジー感がないというか概念的考察度の高い章。


第7章 利己主義と利他主義

マンガやドラマで、ある登場人物が他人のために何かをして(などと記述されるようなふるまいをして)、ほかの人物に「そんなにチヤホヤされたいかねえ」とか「自己満足だろ?」などと言われているシーンを見たことはないだろうか。というか私こないだ刑事ドラマで「人は自分のためにしか何かをすることができないというのが僕の考えなんです」ってセリフを主人公が言ってるのを観たんですが。
そういうホッブズまでさかのぼる利己主義の考えを現代哲学者が心理学や進化学の知見を検討しながらガチで考えるとこんなに面白い!という章。エリオット・ソーバーやスティッチ、マシェリといった豪華なメンツによるここ何年かの論争が日本語で読めてしまう。ところで、利己主義を「信じる」ことで利己的な人間を生み出すのではないか?利己主義を信じると人生の有意味感や充実感が減少するのではないだろうか?著者は最後に心理的利己主義を「信じる」ことの影響についても考察する。


第8章 徳と状況――徳倫理学と状況主義の論争

人は状況が変わっても一貫する道徳的な性格(徳)をもつとする徳倫理学と状況に左右されると考える状況主義の対立を概観。状況主義者はムード効果や傍観者効果といった社会心理学の知見を使って徳倫理学を批判するというテンプレ的な流れがあるわけだが、実験の解釈の点で問題もあるし、状況主義者は徳概念を単純化しすぎだという反論もある。また、完全な徳を持つ人はまれで普通の人々には弱い徳が備わっていると考える両立的な立場もある。徳倫理学は包括的な説明が難しいといわれるらしいのだが、いい見取り図が得られたと思うし、足りない部分は註での充実の文献情報でカバーしていると思う。


第9章 文化相対主義の克服に寄せて――道徳的/慣習的規則の区別に関する論争を手がかりに

日本の社会科学の哲学のパイオニア吉田敬さんが登場。テーマは文化相対主義
キリスト教化や植民地化を押し進めた負の歴史がある以上、自文化中心主義を退けて、異文化の行為や慣習に寛容でなければならない、などと言われる。とはいえ、文化相対主義を極めてまじめに受け取るとカキアと呼ばれる女性器切除のような慣習(実際にあり、慣習を恐れてアメリカに亡命した例もある)に対して批判を行うことが難しくなる。しかしジェイムズ・レイチェルズは(1)ある文化的慣習に対して道徳的判断すること、と、(2)キャンペーンを行い、外交圧力を加え、介入すること、を区別し、(2)を恐れて(1)を全く行わないことの問題を指摘する。また合理性を程度問題と考え、互いの違いを尊重しつつ問題のある所を指摘し修正していく可能性にも触れる。

モラル・サイコロジー: 心と行動から探る倫理学

モラル・サイコロジー: 心と行動から探る倫理学