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『批判と知識の成長』マスグレーヴ&ラカトシュ

1965年7月ベッドフォード・カレッジでおこなわれた科学哲学国際コロキウムでのカール・ポパーとトマス・クーンの理論とを対決させるという形で展開された討論を本にしたもの。クーンのよき理解者マーガレット・マスターマンや空気の読めないファイヤアーベントなどいろいろ見どころはあるがここではクーンとポパーについて書く。

まず仄聞するところから想像してたよりも堅実な討論がなされていてそこは意外だった(実際はもっときつい言い方がされてたのかもしれないけど)。またポパーとクーンが一般的なイメージ(というか私の偏見)よりもずっと近い立場で、今読むと何をそんなに争っているのかざっと読んだだけではわからないほどだ。

まずはポパーの言い分、これはようはクーンのパラダイム批判なんだけど、パラダイムポパーは準拠枠という言い方をする)を一切認めてないわけではなく、むしろかなりのところ認めている。とはいえ枠組を容易に抜け出し、よりよい枠組に移ることは可能だとする。


いつどんな時でも、我々は我々の理論、我々の期待、我々の過去の経験、我々の言語の枠組に捕らえられた囚人であるということは私も認める。もし試みようとすればいつでも枠組から脱出することができる。確かに我々は再びまた枠組の中に置かれるが、しかしその枠組はより良い、より広々とした枠組であろう。(p.82)

ちなみにポパーは科学についての学に社会科学や心理学を援用しようというクーンのアイデアについては「がっかりさせられる」と述べる。
流行とドグマで穴だらけになっているから、というのがその理由らしい。当時と現在(2017)では心理学も社会科学も状況が違うので仕方ないっちゃ仕方ないのかもしれない。

 

ではお次は上のポパーの見解に対するクーンのリプライ『私の批判者たちについての考察』。
今度はクーンが相対主義を強く否定していてこちらも「あれっ」となる。


非合理性、相対主義、大衆支配の擁護というレッテルは私がきっぱりと拒否するものである。
理論選択の問題において、論理と観察のもつ力が原理的に強制的なものではありえないということは、論理と観察を放棄するものでもないし、ある理論を別の理論より選好するための正当な理由がないことを示唆しない。
(p.327)

学者らしく難しい表現だけど、ようは実験の結果からいろんな解釈が出てくるからって実験という方法が悪いわけじゃないし、よりよい理論を決めるまっとうな理由はあるよってこと。

科学者は枠組のようなものに捉われているか?―――2人ともYES

枠組から抜け出ることは可能か?―――2人ともYES

ではポパーとクーンのどこに緊張があるのか。それは枠組から抜け出ることが容易か困難かという所だ。

「もし試みようとすればいつでも枠組から脱出することができる。」というポパーに対しクーンは「(枠組について)必要不可欠であると同時に自由に不要にできるということは、ほとんど言語矛盾だ」と反論する。
クーンにとって準拠枠から抜け出すことは可能ではあるが大変難しいことなのだ。とはいえクーンは「枠組の打破を目指してはならないということを意味しない」と付け加えてもいる。
クーンのいう理論間の対話の困難さはクーンの言語観に由来しており、その言語観はクワイン『ことばと対象』、スタンリー・カヴェル『Must We Mean What We Say?』に負っているようだ(もちろんそれだけじゃないだろうけど)。*1

またクーンは「科学哲学者が諸理論を真に外在するものについての言明として相互に比較することを望んでいるが(…)その種のものは見出しえないと私は思う」と述べており、これって業界用語で反実在論って立場だよねってことでクーンの立場を「弱い合理主義、非自然科学的自然主義反実在論」としてまとめることが出来るかもしれない。

もちろんこれは科学哲学の枠組から眺めてまとめれば、という話ではあるが。

 

批判と知識の成長 (1985年)

批判と知識の成長 (1985年)

 

 

 

*1:デリダ署名、出来事、コンテクスト」を書く前年にカヴェルはデリダと会っており、その時デリダはカヴェルのこの本を両手で持っていたという。カヴェル『哲学の<声>』(p.97)