復活!斎藤環×茂木健一郎の往復書簡

自分はかつて「斎藤環×茂木健一郎の往復書簡でモギケンから返事こない問題」についてこのブログで書いたことがあります*1
ようは斎藤環さんの提案で茂木さんとの往復書簡の企画が始まったが環さんからの第一信以来2年間茂木さんから返事がなく、梨のつぶてになっており、誰もが「この企画はもう終わった」と思っていたのだが、ここにきて事態は急展開。あろうことか、最近になって茂木さんから返信が届いたのである!それに対する環さんの第三信が三日前に公開された。

書籍出版 双風舎:【連載】「脳は心を記述できるのか」

ちなみに往復書簡再開の際に環さんからの要求で以下のような新ルールが追加された。

いかなる事情があっても、掲載予定日から一カ月以上、返信が遅れた場合は、遅れた側が応答を放棄したものと見なし、往復書簡は自動的に終結します。さらに、遅れた側は、返信ができなかった理由を書簡の相手と読者に説明し、その全文を双風舎ウェブページに掲載

いやあ…なんかもう「逃がさねーぞ」って感じですね…。

で、先ほど読了しました。えー…、いきなり環さんからの嫌味がふんだんに含まれていますが(笑)、これは致し方ないんじゃないでしょうか。2年待たされた環さんの嫌味の一つや二つを誰が責めることができましょう。しかし前書きはともかく、内容はイイ!というか環さんの本数冊読んだ中では(サンプル数少ないが)この文章はベストといってもいいくらい。お得意のラカンからウィトゲンシュタイン、はてはルーマンパーソンズあたりの社会学まで援用し、かなり目からウロコの知的刺激に満ちた内容です。

ところで環さんは「人間は脳がすべてではない」という主張の根拠として「ダンディウォーカー症候群」という疾患により水頭症(髄液が異常に貯留する病気)を生じて、そのため脳が紙のように薄くなってはいるものの「脳が通常の人」と同じように生活して結婚してふたりの子どもまでいる男性の事例を紹介しているが…

mjd?

ハードウェアがこれほどダメージを受けていても、「人間」というOSは繰りかえし起動するということ。この事実は、ちょっと感動的ですらあります。
(往復書簡第3信)

とかさらっといってますが、いやこれはすごい主張ですよ?
自分は門外漢ながらそれなりに脳科学の本を読んできたんですが、fMRIを撮って××してる人はこの部位が発火(活性化)して…とか、前頭葉切断するロボトミー手術によって感情のない無気力人間になることがわかって今ではヤバイということになってるとか、ようは人格・行為にとって脳は重要ってことなんですが、これまで読んできたそれらはなんだったの?ということに…。脳がぺらぺらになっても脳は正常に機能するということは、ようは柿はそのまま食べても美味しいけど干し柿にしても美味しい、ということだろうか?(違


いやしかしその人に通常の脳の人と何か行為をさせてfMRIを撮って比較検証とかしなかったんだろうか?
こういう脳がペーパーみたいに薄くなっている人こそfMRIで脳画像パシャパシャ撮るべきでしょう、林家ペーパー夫妻みたいに…。

いや、私はこの事例を疑ってるわけではありません。素直に人間って奥深いなーと感動しますが、今までの脳科学的知見とかけ離れた事例に戸惑っているだけです。

さて、斎藤環さんは茂木さんの「言語だけでは、意識を現象学的に記述できない」という立場に対し、人間の人間たる根拠というか条件に「脳」というよりむしろ「言語」や「関係性」を重視するようです。

たとえ彼らが人間とまったく異なった物質で構成され、あるいは脳の機能すらも人間とまったく異なっていたとしても、言語によって内省し、語る存在は、ことごとく「人間」なのだ、とジジェクはいうのです。
じつは私も、この過激な主張を完全に支持するものです。
(往復書簡第3信)

なぜ人間だけが世界を形成できるのか。それはまちがいなく、言語の機能ゆえでしょう。世界貧困と世界形成とのあいだには、決定的な断絶がありますが、これもたらしたものこそ言語なのです。もし人間に感覚やイメージしか許されていなかったら、人間の世界ははるかにちいさく、狭いものになっていたはずです。
(往復書簡第3信)

これほど主観的な「純粋感覚」を、われわれはなぜ言語化できるのか? 客観的対象が存在しない「感覚」を、われわれはなぜ、名指すだけで他者に伝達しうると信じているのか?
 結論を先に書きましょう。
 われわれが「痛い」と感ずるのは、まさに「痛い」という言葉があるからです。
(往復書簡第3信)

斎藤環さんはラカンウィトゲンシュタインを援用しつつ「感覚に対する言語の先行性」を主張します。
言語が思考を指揮するという言語決定主義はウィトゲンシュタインハイデガーロラン・バルトなどの哲学者などが指摘しているところではあります。

ちなみにこの言語決定主義には異論もあります。例えば認知科学者のスティーブン・ピンカーは言語決定主義を主張するには次の3つを示さねばならないと規定しています。

1.ある言語の話者にとってごく自然な考え方が、別の言語の話者には不可能ないしきわめて困難であるということ(ただ単に、そう考える習慣があまりない、といった程度ではなく)。

2.その考え方の違いは純然たる論理的思考にかかわり、話し手が問題を解決できなかったり、わけがわからず混乱してしまうようなものであること(ただ単に、インクの染みが何に見えるかといった判断において主観的な印象が多少変化する、という程度ではなく)。

3.そしてその考え方の違いは、言語によって生じるものでなければならない。それ以外の理由があって、それがただ言語に反映しているという場合や、言語と思考のパターンがともに周囲の文化や環境によって影響を受けている場合は除外されなければならない。
スティーブン・ピンカー『思考する言語〈上〉 』(p266)

ピンカーは言語は思考そのもの(言語決定論)とか人間は生まれつき基本概念を表象する能力を持っている(生得主義)といったライバル理論を検証し、それらの理論の限界を明らかにしつつ、空間、時間、因果性、所有、目的といった、思考の言語を構成する、より抽象的でより普遍的な概念が心に備わっていると主張し、言語はそれらを見るための「覗き窓」にすぎないという概念意味論を提唱します。

しかし、環さんは言語化しきれない体験を全否定しているわけではないようです。

繰りかえします。「言語化しきれない体験がある」というのは、当然のことです。むしろ、ある種の体験は言語化が可能であるような結果が得られてしまうことのほうが、謎であり奇跡なのです。この事実ひとつとっても、言語の圧倒的な優位性はゆるぎません。
(往復書簡第3信)

さらに環さんは茂木さんの「偶有性」についても厳しく追及しています。パーソンズルーマンとか宮台真司さんの依拠している社会学者の話が出てきたりして、社会学的知見も惜しまず披露。環さん、そこら辺も詳しいんすね。なんだか宮台さんと対談やったら面白いんじゃないかとか思えてきました。そこで神聖ローマ帝国元老院議員ググレカスに訊いてみたところ、かつてマル激トーク・オン・デマンドに出てたことが判明。その時はテーマが引きこもりでしたが一度ルーマンとかシステム論の社会学についてガチでトークしたら面白そうです。いかん話がそれた。

環さんは最後にこのように締め括っています。

 言語と偶有性について、とりわけ偶有性の定義とそのアスペクト的理解について、茂木さんからの“ハードコア”(科学哲学的な意味で)な返信を、畏れとともに期待しています。

いやあ、環さん、ちょっと茂木さんが知ってるかどうか読者のこっちが不安になるほど哲学者の名前とかジャーゴン連発しすぎな気もしましたが(笑)、相変わらず論理は明晰だし、こんなこといったら環さんは複雑かもしれないけど『思春期ポストモダン』とかよりずっと面白かったです(笑)。

そもそもこの往復書簡、環さんが言うように論争ではなくて「立場の違い」の確認を目的としているし、もともと下敷きにしている理論とかが全然違うお二人、どっちかがどっちかを論破みたいにきれいな決着がつくとは思っていません。だから茂木さんには、環さんが依拠するポストモダニズムとかシステム論からアウェイな立場の人としてポストモダニズムとかシステム論に対する思いもよらぬ視点で揺さぶりをかけてくれることを期待しています。
頼むぜモギケン!

思考する言語〈上〉―「ことばの意味」から人間性に迫る (NHKブックス)

思考する言語〈上〉―「ことばの意味」から人間性に迫る (NHKブックス)