無題

最近新書を出した戸田山さんの立場についてじゃっかんのフォロー

戸田山の立場
1.「物質的世界のしくみがどうなっているか」については経験的探求を優れた手段とみなす
2.科学的考慮を超えた、経済的・社会的・倫理的考慮が入り込んでくる問題に対して科学・技術の専門家だけには任せてはいけないと考える


以下は科学的実在論論争の往復書簡で科学的合理性の優位性を強調する戸田山さんに対して伊勢田哲治さんが異論を呈するところから。

伊勢田さんによる第4信(RATIO6号 p.312)

今回のお返事には長年科学技術社会論STS)などの研究を戸田山さんと一緒にやってきた者として正直ちょっと驚いています。戸田山さんは科学的合理性以外の合理性は認めないのですか?市民と科学者の双方向コミュニケーションに基づいてリスクの見積もりや科学技術の政策決定をしましょう、といったSTSの基本的な考え方は、科学的合理性の他に社会的な合理性とでも呼ぶべきものが存在していて、それもまた社会的意志決定においては尊重されるべきだということを前提にしています。わたしはそれと同じような意味で、哲学者と科学者の双方向コミュニケーションというのも成り立つはずだと考えています。

戸田山さんによる第5信(RATIO6号 p.320-321)

私が伊勢田さんより科学主義的傾向が強いという点は認めますが、私の考えは「科学的合理性以外の合理性は認めない」というものではありません。(…)というわけで、科学技術社会論にもコミットしてきたはずの戸田山が何を言い出す、と言われても、ちょっと、困ったな、と思いました。科学技術をめぐる政策決定、より広く言えば、科学技術という暴走したらちょっと怖いパワフルな存在をどのように社会的にコントロールするか、についての議論は、科学者の認識論的合理性よりも、もっと広い合理性基準にもとづいて行わなくてはならないのは明らかです。(…)こうした問題を解決するには、市民と科学者の双方向コミュニケーションと、より広い「社会的合理性」に依拠する他はありません。なぜなら、こうした問題は科学者の「認識論的」合理性の範囲外だからです。そして、社会的合理性には、価値の多元性を認める、ということが含まれるべきだとも思います。

同じような話を『「科学的思考」のレッスン』の後半でもしていたと思います。

あと(分析系・特に科学哲学の)哲学者の方々は哲学という言葉を一般の方より狭く使う分(概念分析とか思考実験とか。それだけじゃないけど)、科学という言葉を一般の方よりも広く使う、というズレも過小評価できないポイントだと思いますね。

といったようなことをわかってればそれほど極端な立場ではないと思えてくるんじゃないかな(たぶん)。

哲学入門 (ちくま新書)

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ラチオ06号

ラチオ06号