パルヴェーズ・フッドボーイ『イスラームと科学』

パキスタンの理論物理学者によるイスラーム圏の科学史の本。
前言は1979年ノーベル物理学賞というのを受賞した(らしい)モハンマド・アブドゥッサラームによる。

原書は1991年と20年以上前の本なので状況は変わっているかもしれないが実に面白く、アップデート版を読みたいと思わせる内容だった。

現在では科学は西洋においてガリレオニュートンに始まる、と素朴に考えてる人はそう多くはいないでしょうが、アボリジニの栄養についての一般原理、ミクロネシア諸島にいる長距離の移動を行う民族が示す見事な航海術、古代中国の羅針盤、紙、絹、天文学の成果など、経験的探求は16世紀以前に他文化圏でも行われていた。

じゃっかんSFちっくになるが9〜13世紀に火星人が地球にやってきたら、もっとも見込みのある文明はイスラーム文明だと判断しただろう。ガリレオニュートンの時代より遡ること数百年前、ヨーロッパ人が魔女(と呼ばれた人)を火にくべ異端派を拷問していた頃イスラームの世界は科学、とくに数学と医学にすばらしい貢献をしていた。

しかし、それも長くは続かなかった。スーダンの著名な生物学者であるハルツーム大学のファルツーク・モハメッド・イブラヒムが学生にダーウィン理論を教えたかどでむちで打たれたり、研究や教育において西洋科学をイスラーム経典流に解釈し「イスラーム的科学」なるものをでっちあげるなど、現在(1991)のイスラーム圏の科学は酷い状況にある。
著者はなぜイスラーム圏で科学活動がその後強固に維持継続されなかったかを以下のように分析していく。

・社会的態度や哲学に関するもの
・教育上の概念に由来するもの
イスラーム法に固有な性質の帰結であるもの
・自治都市や職業ギルドといった社会・経済的構成物の不在または脆弱さ
イスラーム圏の政治に固有な特徴に由来するもの

第3章「科学と中世キリスト教の戦い」でフッドボーイは中世〜近世のキリスト教が(今で言うところの)科学者にしてきたことを詳述するのだがこれがなかなか読んでて胸が痛くなる。
いくつかエピソードをあげると…
たとえば1752年にベンジャミン・フランクリンが稲妻が電気と発見しても教会は「天の武器を操ってはいけない」と避雷針を認めなかったり(避雷針のない建物だけ次々雷が落ちることになる)*1天然痘コレラは神の懲罰と考えられたのでボイルストン博士をかばった人物の家に手投げ弾が放り込まれたり、イマヌエル・カントがガス星雲が存在するという理論を唱えたときも抗議の声が沸きあがったりしたなどなど。ちなみにこのカントさんは今で言うところの哲学者でもあったらしいよ。

現在のわれわれの多くはこのようなエピソードを一笑に付すだろうけれども、科学と社会の間で活動する者にとって、フッドボーイの「実際のところ、隕石や天体についてなら科学的になれる人間も、生命それ自体についてそうするのははるかに難しいのだ」という言葉は胸に突き刺さることだろう。

イスラームと科学

イスラームと科学

あわせて読みたいかもしれないといっても過言ではない可能性
ロビン・ダンバー『科学がきらわれる理由』本書と趣旨が近い。これも結構古い本だけど。そういえば初めて読んだときロビン・ダンバーのことまったくといっていいいほど知らなかったの思い出した。

科学がきらわれる理由

科学がきらわれる理由

*1:ただこれは予測の精度は認めていたということなのでどちらかというと形而上学あるいは倫理学の問題かもしれない

『知のユーラシア1 西洋近代哲学とアジア』

本書の目的は近世(17世紀末から19世紀全般)における思想・宗教・文化面での「東西交流」「東西関係」に新たなメスを入れること。たとえばライプニッツイエズス会の中国伝道師らとの交流を通して早くから中国思想に強い関心を示していたことは比較的よく知られているそうだが、晩年の著作に『中国自然神学論』なんてのまであってけっこう本格的に取り組んでいたことがわかる。

こうした研究は日本では五来欣造が1929年(本書では1927年となってるがおそらく誤り)に『儒教の独逸政治思想に及ぼせる影響』で先鞭をつけていた。そこではライプニッツがみずから創見した二進法は伏羲の陰・陽の二要素から展開する易の世界観と相通ずるとみていた、といった見解が表明されている。

ライプニッツを継いで、中国哲学に傾倒したクリスティアン・ヴォルフは1721年『中国人の実践哲学』の講演において、その内容のキリスト教の体系とぶつかる部分が教授陣の反感を買い、亡命を余儀なくされマールブルク大学へ移るが当時のヨーロッパの知識人にはヴォルフは同情され、歓迎を受ける。さらにはロシアのピョートル大帝はサンクト・ペテルブルクの王立アカデミー副総裁の地位の提供を申し入れ、それ以降ヴォルフの哲学はカントへいたるドイツ哲学の主流を形成し、ラテン語訳、フランス語訳などによって東西ヨーロッパからアメリカにいたるまで広く流布するにいたった。

にしても17世紀ごろに『論語』といった中国哲学の古典がラテン語やフランス語に翻訳されて読まれていたとはしらんかった(逆にストア派の哲学書が中国の士大夫に読まれたりしていた)。
ライプニッツやヴォルフといった啓蒙主義形成期の哲学者たちに中国哲学がどう映っていたかがみえてくる。
融和的な当時の紹介者たちが既成のヨーロッパ的・キリスト教的価値観に抵触しないように四苦八苦する様子が痛々しい。

シリーズ知のユーラシア1 知は東から: ー西洋近代哲学とアジアー

シリーズ知のユーラシア1 知は東から: ー西洋近代哲学とアジアー

増田聡『その音楽の<作者>とは誰か』

Twitterで音楽美学・音楽社会学クラスタにはおなじみ増にぃのごほん。
つぶやきのノリと文体のギャップに最初いささか戸惑う・笑

ロラン・バルトミシェル・フーコーの「作者の終焉」の議論とのアナロジーで、ニコニコ動画やクラブミュージックのサンプリングやリミックスといった実践をポストモダン美学の格好の例証として扱う、というのは90年代頃からの文芸評論のひとつのトレンドなのであるが著者は節操なく「作者」の死を謳う(一部の)ポストモダン美学にも、「抵抗」を見出すカルチュラル・スタディーズにもコミットすることなくメディア・テクノロジー、産業構造、法制度の変化から「作者」「作品」概念の変容を丁寧に分析することで音楽分野における作者理論の洗練を試みる。

著者が語るようにサンプリング的な実践の「いかに新しいか」だけに注目して「いかに古いか=いかなるかたちで古い概念が保持されているか」を見ないのは片手落ちであろう。本書は新しいものを持ち上げたいバイアスからともすればアジテーション色が強まりがちなトピックについて淡々と記述していて好感が持てる。古くからあるジャンルや様式だからという理由で価値の低いものとしてみたり、なんらかの「べし」に持ち込むのは自然主義の誤謬というやつであろう。

本筋と関係ないけど前半のクラブ・ミュージック史の章ではワープ・レコーズ立ち上げの背景とか諸ジャンルの影響関係とかふつーに勉強になりました。

その音楽の<作者>とは誰か リミックス・産業・著作権

その音楽の<作者>とは誰か リミックス・産業・著作権

貴堂嘉之『アメリカ合衆国と中国人移民 - 歴史のなかの 「移民国家」 アメリカ』

これまでの米国の移民史研究ではヨーロッパ系移民を中心に論じられ、アジア系移民はあまり扱われることがなかったが、本書はそこにばっさりメスを入れ、東南アジアの植民地化とそれに伴う広東、福建からの労働力移動といったプル要因やアヘン戦争太平天国の乱以後の政治的・社会的混乱といったプッシュ要因などグローバルな歴史的文脈のなかに接続させ、中国人移民政策の政策決定過程に加えられたさまざまな圧力を検証している。

また、黒人問題のみに焦点が当てられがちだった南北戦争や19世紀から世紀転換期にかけて「アメリカ人」の境界形成のポリティクスに中国人移民が深くかかわってきたことを明らかにするなど広範な問題領域を扱う力作となっている。

岩倉使節団がサンフランシスコへ立ち寄ったときのチャイナタウン言及など、読み物としても面白い。

アメリカ合衆国と中国人移民 ?歴史のなかの「移民国家」アメリカ?

アメリカ合衆国と中国人移民 ?歴史のなかの「移民国家」アメリカ?

ポール・ファーマー『権力の病理』

ポール・ファーマーは貧困国で結核エイズの医療活動を行ってきた医師・医療人類学者であり、政治哲学的にはアマルティア・センに近く、じっさいセンが序文を寄せている。
1部はハイチなどで著者が見聞きしたことの記述やインタビュー、2部は通常の人権の定義に対する批判が展開され、研究や分析と、治療の不平等に取り組む実際主義的な活動が分離していることは戦術的にも道徳的にも失敗であると主張される。
著者のアカデミックな倫理学に対する否定的な判断は吟味が必要だけど、一読の価値あり。

本書の第1部の表題を「証人となる」にしたことに、私は漠然とした不安を感じる。私の不安にはもっともな理由がある。証言することと、不躾に(あるいは利己的に)引っかき回すことの境目は、どんなに区別しようとしても不明確だ。フィリップ・ブルゴワが、ローラ・ネーダーがかつて発した警告を換言して次のように述べている。「貧困者や無力な者を研究してはならない。なぜなら、彼らについて何を発言しても、彼らに不利になるように利用されるからだ」。人類学者はそうしたがるものだが、自分が確かにその場にいたことを示す以外に利点のない、扇情的なエピソードの挿入などはしないよう心がけた。(p.61)

権力の病理 誰が行使し誰が苦しむのか―― 医療・人権・貧困

権力の病理 誰が行使し誰が苦しむのか―― 医療・人権・貧困

スコット・O・リリエンフェルドほか『本当は間違っている心理学の話 - 50の俗説の正体を暴く』

サブリミナル効果でものを買わせることができる」とか「怒りは抱え込まず発散したほうがいい」といった通俗心理学に対してより巧みに操作された実験データによってそれらが不適切なことを明らかにしていく科学的な心理学の本、



とかいうと一部苦い顔する人がいるのはわかりすぎるほどわかってはいるんですが(現象学精神分析に通じてる人とか)

疑似科学の批判は片手間にはできない。それじたいを科学的に行おうとするならそれなりの手間暇がかかる。それをサボるなということだ。

という訳者解説の一節が素晴らしいので紹介。まあ、当たり前の話なんですけど。少なくとも本書は参照文献が53ページ分と膨大で「自分にとって都合の悪い説だし仲のいいトモダチがトンデモって言ってたから一緒になってDISる」といったお手軽なものではありません。

「数百年前に広く信じられていたことが今ウソだというなら現在科学的に妥当とされている説だって数百年後には笑い話になってるかもしれないじゃないか」と不満を述べる人もいるでしょう。19世紀にヨーロッパやアメリカで骨相学なんてのが信じられていたように。

科学の長所の一つは潔く間違えることができるという点で(注:自説を反証例から守るための後付けをアドホックな補助仮説といってこんなことばかりやってるとどんどん科学として減点されていく)、将来やっぱり本書による批判も間違ってましたということになる可能性はありますが、だからといってグレーゾーンを無視してすべての仮説は同等だという相対主義を私はとりません。そして本書は「神話」とされる見解に対してより良い見解を対置してくれるものなのです。

「それでも」といいたくなる人もいるかも知れません。

こころといっても先行する刺激の処理によって後続刺激の処理が促進または抑制される(プライミング効果)みたいな話と「こころのやまい」の話はレベルが違う話で「こころのやまい」は個別具体的に見ていかなければならないのではないか、とかよく聞く話ではあります(あるいは人々を知らず知らずのうちにある振る舞いへと導く「構造」や「言説」を分析すべし、など)。

違う目的を持って、違う対象を探求しているのに、ゆる〜く「心」と同じ日常語で呼んでいるからこそ、起こる必要の無いいざこざが起きているということも十分ありうると思います。

その辺の疑問についてもいちおう言及はされていますね(納得してもらえるかどうかはさておき)。
俗説に対して「少なくともここまでは認められる」と、フォローも忘れないあたり、なかなか穏健な本です。

たいへん堅実な尊敬できるお仕事ですが、私としましては、
普段はエビデンス・ベースドなアプローチに関心無いわりに(知的誠実さのあらわれというより)ゲーマーだからこそ「ゲーム脳」は張り切って叩くという心理・バイアスとか、通俗心理学にハマってしまう心理自体を探求の対象とした「通俗心理学の心理学」といったトピックに興味を惹かれてしまいますね(ゲーム脳の問題点については証拠の有無以前にそもそもの主張がおおざっぱすぎる点にあると思うが)。

社会心理学やメディア論といったさまざまな分野の共同作業による「通俗心理学の心理学」のほうは訳者の方がすでに研究を始めておりこの辺の話もいつか一般層のアクセスしやすい新書とかでまとめてくれるといいなあと思いました。

本当は間違っている心理学の話: 50の俗説の正体を暴く

本当は間違っている心理学の話: 50の俗説の正体を暴く

無題

最近新書を出した戸田山さんの立場についてじゃっかんのフォロー

戸田山の立場
1.「物質的世界のしくみがどうなっているか」については経験的探求を優れた手段とみなす
2.科学的考慮を超えた、経済的・社会的・倫理的考慮が入り込んでくる問題に対して科学・技術の専門家だけには任せてはいけないと考える


以下は科学的実在論論争の往復書簡で科学的合理性の優位性を強調する戸田山さんに対して伊勢田哲治さんが異論を呈するところから。

伊勢田さんによる第4信(RATIO6号 p.312)

今回のお返事には長年科学技術社会論STS)などの研究を戸田山さんと一緒にやってきた者として正直ちょっと驚いています。戸田山さんは科学的合理性以外の合理性は認めないのですか?市民と科学者の双方向コミュニケーションに基づいてリスクの見積もりや科学技術の政策決定をしましょう、といったSTSの基本的な考え方は、科学的合理性の他に社会的な合理性とでも呼ぶべきものが存在していて、それもまた社会的意志決定においては尊重されるべきだということを前提にしています。わたしはそれと同じような意味で、哲学者と科学者の双方向コミュニケーションというのも成り立つはずだと考えています。

戸田山さんによる第5信(RATIO6号 p.320-321)

私が伊勢田さんより科学主義的傾向が強いという点は認めますが、私の考えは「科学的合理性以外の合理性は認めない」というものではありません。(…)というわけで、科学技術社会論にもコミットしてきたはずの戸田山が何を言い出す、と言われても、ちょっと、困ったな、と思いました。科学技術をめぐる政策決定、より広く言えば、科学技術という暴走したらちょっと怖いパワフルな存在をどのように社会的にコントロールするか、についての議論は、科学者の認識論的合理性よりも、もっと広い合理性基準にもとづいて行わなくてはならないのは明らかです。(…)こうした問題を解決するには、市民と科学者の双方向コミュニケーションと、より広い「社会的合理性」に依拠する他はありません。なぜなら、こうした問題は科学者の「認識論的」合理性の範囲外だからです。そして、社会的合理性には、価値の多元性を認める、ということが含まれるべきだとも思います。

同じような話を『「科学的思考」のレッスン』の後半でもしていたと思います。

あと(分析系・特に科学哲学の)哲学者の方々は哲学という言葉を一般の方より狭く使う分(概念分析とか思考実験とか。それだけじゃないけど)、科学という言葉を一般の方よりも広く使う、というズレも過小評価できないポイントだと思いますね。

といったようなことをわかってればそれほど極端な立場ではないと思えてくるんじゃないかな(たぶん)。

哲学入門 (ちくま新書)

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ラチオ06号

ラチオ06号