エリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ - 表現の自由はどこまで認められるか』

本書ではレイシズムを「皮膚の色、エスニシティ、国籍、あるいは宗教といった特性に基づいた排除や中傷」としている。大事なことなので最初に書きました。

危険なレイシズムを抑え込もうという人達と、積極的にレイシズムを支持する人達あるいはレイシズムを支持するわけではないが自由を根拠にレイシズムの規制に反対する人達がいて、後者の人達がよく言うのが「あっという間に焚書が始まるぞ(byフィリップ・ゴーレイヴィッチ)」とか「ポルポトを見よ」とか。「規制したら団体を地下活動へ向かわせるのではないか」なんてことも言われたりする。

あるいは「どっちもどっちだろ」と言って事足れりな人ね。しかしブライシュは、そうした主張は価値のバランスを「いかに」保つべきかという点については何も述べていない、と手厳しい。

ようは白か黒かではなく程度問題なのであり、言論の自由の範囲について片方の端を「焚書」としてもう片方の端を無政府主義とするスペクトラムのどの位置がベストか歴史的文脈に照らし合わせて適切な結果をもたらすような判断をせねばならないということだ。

この問題に対して本書ではアメリカやイギリスやフランス、ドイツといった国々のレイシズムの歴史的展開についての研究を行い、法や裁判の個別の事例(とその結果どんなことが起こったか)をこれでもかと挙げている。それによると、どうやら自由にミニマルなコストを課すことで反対派のいう「焚書」といった行き過ぎた事態に陥ることなく危険なレイシズムを抑えることは出来そうだよ、とのこと(もちろん他の地域にそのまま適用、というわけにはいかないが)。

読んでて興味深かったのは多くのヨーロッパと比べて、「自由」のイメージが強く、ヘイトスピーチの規制には消極的なアメリカが、人種差別を動機とする犯罪(ヘイトクライム)を規制する立法を行ったのはかなり早かったということだ(順番としてはアメリカ→イギリス→フランス、イタリア→ドイツ)。つまり、アメリカがレイシズムに寛容というのは必ずしも正しくない。


本書の欧米のレイシズムについての歴史的研究と個別事例の数々、そして純然たる倫理学法哲学の研究ほど踏み込んでいるわけではないが(ブライシュは哲学者ではないのでそれは求めすぎというやつである)ロールズやドゥオーキン、レイモンド・ゴイスといった法・政治哲学者を一部参照にした規範的議論は、「どっちもどっち」論を乗り越えこの問題にかかわる法や政治の社会的な基礎を強固なものとするのに強力な一冊となる筈だ。

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

『シリーズ 新・心の哲学Ⅰ 認知篇』

勁草書房から出ていた「シリーズ心の哲学」の新シリーズが登場。とりあえず「Ⅰ」だけ読んでみたが、ここ数年の哲学的・経験的探求の成果が取り入れられ、概念の理論や他者理解などホットなトピックも抑えてあって、タイトルに偽りのない一冊になっている。読書案内も充実で以前からもっと紹介されればいいのにと思っていたマシェリプリンツ、スタインなどの名前があってムネアツでした。


1章 概念の構造とカテゴリー化
フレーゲの概念的なものについてのプラトニズム(野本和幸『フレーゲ哲学の全貌』pp.221-222)とか、そういう話とはレベルを異にする問題として、概念の内容や構成要素は何かという問題があって、本章では後者について論じられる。
分析哲学の古典的な概念観である古典説(定義説)では概念を、その必要十分条件から成り立つものとして捉える。たとえば「知識」の概念を古典説的に分析すると、

1.Aは「Xである」と信じており、かつ、
2.Aの「Xである」という信念は正当化されており、かつ
3.「Xである」は真である。

といった具合。ちなみに古典説への疑念の萌芽はクワイン『二つのドグマ』やウィトゲンシュタイン『探求』にすでにみられる。
「概念分析は必要十分条件を求めることをしているわけではない」という方もおられるかもしれないが、そういわれると「ではあなたは概念についてどんな説を支持しているのですか?」と聞きたくなる。

カナダで最新の分析系認識論や実験哲学を学んでいらっしゃった笠木さんも同様のことを仰っていた。
twitter.com/kasa12345/status/459334621004451840

本章では概念を個別の事例の記憶表象として捉える実例説(Medin & Schaffer 1978; Medin et al 1982)、そのカテゴリーの事例がもつ傾向のある(必要十分条件とは異なる)属性の表象のセットとして捉えるプロトタイプ説(Rosh & Mervis 1975)、概念原子論(Fodor 1998)、長期記憶の中の知覚表象ネットワークの一部が短期記憶において一時的に活性化したものと捉える概念経験論(Prinz 2002)、概念なる用語は(心理学からは)消し去るべきだという概念消去主義(Machery 2009)などなど概念研究の現在の動向を知ることができる*1

古典説が放棄されても、概念分析という営みは何らかの形で残るかもしれないが、見解によってはだいぶ様変わりすることになるかもしれない(概念消去主義だとおそらく概念分析という営みも放棄される)。最後に、お前はどうなんと聞かれれば自分としては実例、理論、プロトタイプを使いつつも概念という用語の説明上の有用性から消去主義はとらない、というウェイコフの見解(Weiskopf 2009)をさしあたり支持したいところ。


2章 思考について考えるときに言語の語ること
本章の著者は自然科学者であり、本書におけるダークホース。といっても古典から実験哲学まで、そんじょそこらの哲学研究者よりずっと哲学に通じている方です。だいたいデカルトアリストテレスが哲学者と呼ばれるなら本章の著者を哲学者と呼んでいけない理由もないような気もするがそれはさておき、哲学的自然主義者って脳科学の話するんでしょという一般イメージ(?)に反して実はembodied cognitionとか「環境」とかにいきがちな日本の哲学的自然主義界隈なのであるが、本章では統辞処理だったり「側性化ウォーフ効果」と呼ばれる現象についてのエキサイティングな頭蓋の内側の研究の最新の成果を紹介し、それらが含意する、哲学理論にも揺さぶりを与える(たとえば指示理論とか)であろう、思考と言語の関係について論じられる。


3章 思考の認知科学と合理性
心理学において迅速で「誤りやすい(とされてきた)」推論=タイプ1(あっ…(察し)みたいなやつな)とゆっくりとしたより正確な推論=タイプ2の二つが措定されていることはよく知られているが、タイプ1の推論能力が持つ文脈依存性を社会的場面を含めた生存環境において適応的であるとしてタイプ1を優位に置くギーゲレンツァーの生態学的合理性(Gigerenzer 2000; 2007)や、いやいや高度に発達した現代文明ではタイプ1だけでは不十分だよ、というスタノヴィッチの「自動的精神」「アルゴリズム的精神」「反省的精神」から構成される三部分構造モデル(Stanovich 2010;2012)などなど合理性の議論の最先端が読める。「小難しい用語使ってるけど昔からよくある議論じゃないですか」なんて人もいるかもしれないけれども思弁的なものではなく綿密で地に足のついた議論を展開しております。


4章 自己知と自己認知
「自分のことは自分が一番分かってるでしょ、当然」と言う人もいるだろうけど、小学生のときクラスの女子からかったりして卒業した後で「ああ、あのこのこと好きだったんだ」と気づいたり、食欲ないと思ってたけどいったん食べ始めたら箸が止まらなくなったりとか、こんな経験はないでしょうか。本章は面識説、内的知覚説、自己解釈説といった自己知の諸理論を検討し、最後に解釈主義の立場から合理性説を主張。「自己解釈を介さず成立する(それゆえ自己解釈説とは異なる)自身のコミットメントのある命題的態度」というのがいまひとつピンとこなかったけれど。

5章 他者理解
他の人が何考えてるかについてわれわれはどうやって理解してるのか、が主題。挨拶されたらわざわざ「推論」なんてことするまでもなく挨拶し返すし「こいつどういうつもりだ?」とじっくり考えるときもある。振る舞いや表情などから推論しているのだという理論説や「自分がああだったらこう思うだろうな」というシミュレーション説があり(そもそもこの2つ区別可能なのかという議論もある)、さらには命題知/技能知、知的理解/共感的理解、パーソナル/サブパーソナルなどなど他者理解の諸理論・諸概念は大変入り組んでおるのだがそれらをすっきり整理してくれる明晰な叙述に感服。


以上、心の哲学や心理学に関心のある読者だけでなく様々な分野の研究者にも読まれてほしい(例えば3章は経済学者などに)射程の広い一冊となっておりますぞ。

勁草書房の商品ページ
http://www.keisoshobo.co.jp/book/b177186.html

シリーズ 新・心の哲学I 認知篇

シリーズ 新・心の哲学I 認知篇

*1:本書ではじっさいにはプロトタイプ説のような心理学者の研究するカテゴリー認識とフォーダーが取り組む概念の内容の研究は、関連してはいるものの、厳密には違う問題だとしている。

パルヴェーズ・フッドボーイ『イスラームと科学』

パキスタンの理論物理学者によるイスラーム圏の科学史の本。
前言は1979年ノーベル物理学賞というのを受賞した(らしい)モハンマド・アブドゥッサラームによる。

原書は1991年と20年以上前の本なので状況は変わっているかもしれないが実に面白く、アップデート版を読みたいと思わせる内容だった。

現在では科学は西洋においてガリレオニュートンに始まる、と素朴に考えてる人はそう多くはいないでしょうが、アボリジニの栄養についての一般原理、ミクロネシア諸島にいる長距離の移動を行う民族が示す見事な航海術、古代中国の羅針盤、紙、絹、天文学の成果など、経験的探求は16世紀以前に他文化圏でも行われていた。

じゃっかんSFちっくになるが9〜13世紀に火星人が地球にやってきたら、もっとも見込みのある文明はイスラーム文明だと判断しただろう。ガリレオニュートンの時代より遡ること数百年前、ヨーロッパ人が魔女(と呼ばれた人)を火にくべ異端派を拷問していた頃イスラームの世界は科学、とくに数学と医学にすばらしい貢献をしていた。

しかし、それも長くは続かなかった。スーダンの著名な生物学者であるハルツーム大学のファルツーク・モハメッド・イブラヒムが学生にダーウィン理論を教えたかどでむちで打たれたり、研究や教育において西洋科学をイスラーム経典流に解釈し「イスラーム的科学」なるものをでっちあげるなど、現在(1991)のイスラーム圏の科学は酷い状況にある。
著者はなぜイスラーム圏で科学活動がその後強固に維持継続されなかったかを以下のように分析していく。

・社会的態度や哲学に関するもの
・教育上の概念に由来するもの
イスラーム法に固有な性質の帰結であるもの
・自治都市や職業ギルドといった社会・経済的構成物の不在または脆弱さ
イスラーム圏の政治に固有な特徴に由来するもの

第3章「科学と中世キリスト教の戦い」でフッドボーイは中世〜近世のキリスト教が(今で言うところの)科学者にしてきたことを詳述するのだがこれがなかなか読んでて胸が痛くなる。
いくつかエピソードをあげると…
たとえば1752年にベンジャミン・フランクリンが稲妻が電気と発見しても教会は「天の武器を操ってはいけない」と避雷針を認めなかったり(避雷針のない建物だけ次々雷が落ちることになる)*1天然痘コレラは神の懲罰と考えられたのでボイルストン博士をかばった人物の家に手投げ弾が放り込まれたり、イマヌエル・カントがガス星雲が存在するという理論を唱えたときも抗議の声が沸きあがったりしたなどなど。ちなみにこのカントさんは今で言うところの哲学者でもあったらしいよ。

現在のわれわれの多くはこのようなエピソードを一笑に付すだろうけれども、科学と社会の間で活動する者にとって、フッドボーイの「実際のところ、隕石や天体についてなら科学的になれる人間も、生命それ自体についてそうするのははるかに難しいのだ」という言葉は胸に突き刺さることだろう。

イスラームと科学

イスラームと科学

あわせて読みたいかもしれないといっても過言ではない可能性
ロビン・ダンバー『科学がきらわれる理由』本書と趣旨が近い。これも結構古い本だけど。そういえば初めて読んだときロビン・ダンバーのことまったくといっていいいほど知らなかったの思い出した。

科学がきらわれる理由

科学がきらわれる理由

*1:ただこれは予測の精度は認めていたということなのでどちらかというと形而上学あるいは倫理学の問題かもしれない

『知のユーラシア1 西洋近代哲学とアジア』

本書の目的は近世(17世紀末から19世紀全般)における思想・宗教・文化面での「東西交流」「東西関係」に新たなメスを入れること。たとえばライプニッツイエズス会の中国伝道師らとの交流を通して早くから中国思想に強い関心を示していたことは比較的よく知られているそうだが、晩年の著作に『中国自然神学論』なんてのまであってけっこう本格的に取り組んでいたことがわかる。

こうした研究は日本では五来欣造が1929年(本書では1927年となってるがおそらく誤り)に『儒教の独逸政治思想に及ぼせる影響』で先鞭をつけていた。そこではライプニッツがみずから創見した二進法は伏羲の陰・陽の二要素から展開する易の世界観と相通ずるとみていた、といった見解が表明されている。

ライプニッツを継いで、中国哲学に傾倒したクリスティアン・ヴォルフは1721年『中国人の実践哲学』の講演において、その内容のキリスト教の体系とぶつかる部分が教授陣の反感を買い、亡命を余儀なくされマールブルク大学へ移るが当時のヨーロッパの知識人にはヴォルフは同情され、歓迎を受ける。さらにはロシアのピョートル大帝はサンクト・ペテルブルクの王立アカデミー副総裁の地位の提供を申し入れ、それ以降ヴォルフの哲学はカントへいたるドイツ哲学の主流を形成し、ラテン語訳、フランス語訳などによって東西ヨーロッパからアメリカにいたるまで広く流布するにいたった。

にしても17世紀ごろに『論語』といった中国哲学の古典がラテン語やフランス語に翻訳されて読まれていたとはしらんかった(逆にストア派の哲学書が中国の士大夫に読まれたりしていた)。
ライプニッツやヴォルフといった啓蒙主義形成期の哲学者たちに中国哲学がどう映っていたかがみえてくる。
融和的な当時の紹介者たちが既成のヨーロッパ的・キリスト教的価値観に抵触しないように四苦八苦する様子が痛々しい。

シリーズ知のユーラシア1 知は東から: ー西洋近代哲学とアジアー

シリーズ知のユーラシア1 知は東から: ー西洋近代哲学とアジアー

増田聡『その音楽の<作者>とは誰か』

Twitterで音楽美学・音楽社会学クラスタにはおなじみ増にぃのごほん。
つぶやきのノリと文体のギャップに最初いささか戸惑う・笑

ロラン・バルトミシェル・フーコーの「作者の終焉」の議論とのアナロジーで、ニコニコ動画やクラブミュージックのサンプリングやリミックスといった実践をポストモダン美学の格好の例証として扱う、というのは90年代頃からの文芸評論のひとつのトレンドなのであるが著者は節操なく「作者」の死を謳う(一部の)ポストモダン美学にも、「抵抗」を見出すカルチュラル・スタディーズにもコミットすることなくメディア・テクノロジー、産業構造、法制度の変化から「作者」「作品」概念の変容を丁寧に分析することで音楽分野における作者理論の洗練を試みる。

著者が語るようにサンプリング的な実践の「いかに新しいか」だけに注目して「いかに古いか=いかなるかたちで古い概念が保持されているか」を見ないのは片手落ちであろう。本書は新しいものを持ち上げたいバイアスからともすればアジテーション色が強まりがちなトピックについて淡々と記述していて好感が持てる。古くからあるジャンルや様式だからという理由で価値の低いものとしてみたり、なんらかの「べし」に持ち込むのは自然主義の誤謬というやつであろう。

本筋と関係ないけど前半のクラブ・ミュージック史の章ではワープ・レコーズ立ち上げの背景とか諸ジャンルの影響関係とかふつーに勉強になりました。

その音楽の<作者>とは誰か リミックス・産業・著作権

その音楽の<作者>とは誰か リミックス・産業・著作権

貴堂嘉之『アメリカ合衆国と中国人移民 - 歴史のなかの 「移民国家」 アメリカ』

これまでの米国の移民史研究ではヨーロッパ系移民を中心に論じられ、アジア系移民はあまり扱われることがなかったが、本書はそこにばっさりメスを入れ、東南アジアの植民地化とそれに伴う広東、福建からの労働力移動といったプル要因やアヘン戦争太平天国の乱以後の政治的・社会的混乱といったプッシュ要因などグローバルな歴史的文脈のなかに接続させ、中国人移民政策の政策決定過程に加えられたさまざまな圧力を検証している。

また、黒人問題のみに焦点が当てられがちだった南北戦争や19世紀から世紀転換期にかけて「アメリカ人」の境界形成のポリティクスに中国人移民が深くかかわってきたことを明らかにするなど広範な問題領域を扱う力作となっている。

岩倉使節団がサンフランシスコへ立ち寄ったときのチャイナタウン言及など、読み物としても面白い。

アメリカ合衆国と中国人移民 ?歴史のなかの「移民国家」アメリカ?

アメリカ合衆国と中国人移民 ?歴史のなかの「移民国家」アメリカ?

ポール・ファーマー『権力の病理』

ポール・ファーマーは貧困国で結核エイズの医療活動を行ってきた医師・医療人類学者であり、政治哲学的にはアマルティア・センに近く、じっさいセンが序文を寄せている。
1部はハイチなどで著者が見聞きしたことの記述やインタビュー、2部は通常の人権の定義に対する批判が展開され、研究や分析と、治療の不平等に取り組む実際主義的な活動が分離していることは戦術的にも道徳的にも失敗であると主張される。
著者のアカデミックな倫理学に対する否定的な判断は吟味が必要だけど、一読の価値あり。

本書の第1部の表題を「証人となる」にしたことに、私は漠然とした不安を感じる。私の不安にはもっともな理由がある。証言することと、不躾に(あるいは利己的に)引っかき回すことの境目は、どんなに区別しようとしても不明確だ。フィリップ・ブルゴワが、ローラ・ネーダーがかつて発した警告を換言して次のように述べている。「貧困者や無力な者を研究してはならない。なぜなら、彼らについて何を発言しても、彼らに不利になるように利用されるからだ」。人類学者はそうしたがるものだが、自分が確かにその場にいたことを示す以外に利点のない、扇情的なエピソードの挿入などはしないよう心がけた。(p.61)

権力の病理 誰が行使し誰が苦しむのか―― 医療・人権・貧困

権力の病理 誰が行使し誰が苦しむのか―― 医療・人権・貧困