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『批判と知識の成長』マスグレーヴ&ラカトシュ

1965年7月ベッドフォード・カレッジでおこなわれた科学哲学国際コロキウムでのカール・ポパーとトマス・クーンの理論とを対決させるという形で展開された討論を本にしたもの。クーンのよき理解者マーガレット・マスターマンや空気の読めないファイヤアーベントなどいろいろ見どころはあるがここではクーンとポパーについて書く。

まず仄聞するところから想像してたよりも堅実な討論がなされていてそこは意外だった(実際はもっときつい言い方がされてたのかもしれないけど)。またポパーとクーンが一般的なイメージ(というか私の偏見)よりもずっと近い立場で、今読むと何をそんなに争っているのかざっと読んだだけではわからないほどだ。

まずはポパーの言い分、これはようはクーンのパラダイム批判なんだけど、パラダイムポパーは準拠枠という言い方をする)を一切認めてないわけではなく、むしろかなりのところ認めている。とはいえ枠組を容易に抜け出し、よりよい枠組に移ることは可能だとする。


いつどんな時でも、我々は我々の理論、我々の期待、我々の過去の経験、我々の言語の枠組に捕らえられた囚人であるということは私も認める。もし試みようとすればいつでも枠組から脱出することができる。確かに我々は再びまた枠組の中に置かれるが、しかしその枠組はより良い、より広々とした枠組であろう。(p.82)

ちなみにポパーは科学についての学に社会科学や心理学を援用しようというクーンのアイデアについては「がっかりさせられる」と述べる。
流行とドグマで穴だらけになっているから、というのがその理由らしい。当時と現在(2017)では心理学も社会科学も状況が違うので仕方ないっちゃ仕方ないのかもしれない。

 

ではお次は上のポパーの見解に対するクーンのリプライ『私の批判者たちについての考察』。
今度はクーンが相対主義を強く否定していてこちらも「あれっ」となる。


非合理性、相対主義、大衆支配の擁護というレッテルは私がきっぱりと拒否するものである。
理論選択の問題において、論理と観察のもつ力が原理的に強制的なものではありえないということは、論理と観察を放棄するものでもないし、ある理論を別の理論より選好するための正当な理由がないことを示唆しない。
(p.327)

学者らしく難しい表現だけど、ようは実験の結果からいろんな解釈が出てくるからって実験という方法が悪いわけじゃないし、よりよい理論を決めるまっとうな理由はあるよってこと。

科学者は枠組のようなものに捉われているか?―――2人ともYES

枠組から抜け出ることは可能か?―――2人ともYES

ではポパーとクーンのどこに緊張があるのか。それは枠組から抜け出ることが容易か困難かという所だ。

「もし試みようとすればいつでも枠組から脱出することができる。」というポパーに対しクーンは「(枠組について)必要不可欠であると同時に自由に不要にできるということは、ほとんど言語矛盾だ」と反論する。
クーンにとって準拠枠から抜け出すことは可能ではあるが大変難しいことなのだ。とはいえクーンは「枠組の打破を目指してはならないということを意味しない」と付け加えてもいる。
クーンのいう理論間の対話の困難さはクーンの言語観に由来しており、その言語観はクワイン『ことばと対象』、スタンリー・カヴェル『Must We Mean What We Say?』に負っているようだ(もちろんそれだけじゃないだろうけど)。*1

またクーンは「科学哲学者が諸理論を真に外在するものについての言明として相互に比較することを望んでいるが(…)その種のものは見出しえないと私は思う」と述べており、これって業界用語で反実在論って立場だよねってことでクーンの立場を「弱い合理主義、非自然科学的自然主義反実在論」としてまとめることが出来るかもしれない。

もちろんこれは科学哲学の枠組から眺めてまとめれば、という話ではあるが。

 

批判と知識の成長 (1985年)

批判と知識の成長 (1985年)

 

 

 

*1:デリダ署名、出来事、コンテクスト」を書く前年にカヴェルはデリダと会っており、その時デリダはカヴェルのこの本を両手で持っていたという。カヴェル『哲学の<声>』(p.97)

ポール・ファイヤアーベント『自由人のための知』

科学の相対主義者と言われる人って大抵「私は相対主義をとるわけではない」とか書いてたりするもんなんだけど、ファイヤアーベントという人は相対主義を引き受けてるわりと珍しい科学哲学者で、本書は自伝もちょっと入ってるとはいえポパーdisってヘーゲル擁護したり、演劇のエピソードを例証に使ったりともはや英墺系の哲学から遠く離れて状態。構造主義レヴィ=ストロース『野生の思考』も参照したりしているが「彼はいいセンいってたが徹底してなかった」みたいなことを書いてたりする。


本書では対象も科学について論じてるというよりむしろ政治哲学なんかに近い。まず「倫理学者は過保護な親みたいなもの」と言い切る反パターナリズムな思想があってそれが科学哲学の方法論的アナーキズムにつながっているのだなあ、とファイヤアーベントの思想の全貌が見えてくる。
その反パターナリズムを支えているのはジョン・スチュアート・ミルに負うところが大きいらしく『自由論』をベタ褒めしている。

科学の相対主義ってラフにいろんな意味で使われてて、予測の精度自体を疑う人や、成果が強力であるがゆえに適用の仕方に批判を向ける人とかいろいろいると思うんだけど、ファイヤアーベントは元々学生として天文学や物理学を学んでいた人で予測の精度について懐疑的なわけではなく、実際に科学研究に携わってないのに規則や規範を編み出すポパーやその弟子筋の哲学者が主な批判のターゲットということのようだ。
では科学者の理論選択などの活動がまったくデタラメに行われてるのか、と聞きたくなるが、そうではないとファイヤアーベントは言う。
ファイヤアーベントにとって方法論的規則というのは

1.具体的な科学的研究過程の中から出てくるものであって
2.変化したり相互作用したりする一過性の状態にすぎない

なので、抽象的な合理性理論をとなえる(ポパー界隈の)科学哲学者が批判される。

また、科学者達が非・科学的な伝統より自分たちのほうが優越していると主張すればそこも攻撃の対象となる。
その辺「神学論争のおはこであったあてこすりの方法はそのまま科学に移植されている」とか「現代は科学がビジネスになっている」とか、なんであれ科学に一言文句言いたい人がとりあえず思いつく話法は大体本書に一揃いしているといってよい。
ようは按手療法を信じたいなら按手療法を、科学のほうに信頼を置くなら西洋医学の医師によって治療されるべきで、その判断は専門家が押し付けることではない、という考え方のようだ。


ファイヤアーベントの主張は極端なものばかりで同意できるものは少なかったけど同意できたのは一人の専門家の勧めに従う前に自分でよく調べてみる必要があるってのと、疑似科学批判する際に対象(占星術とか)についてよく知りもせずに権威にすがって批判してると足元をすくわれるぞという主張なんだけど、これは別に非・相対主義と矛盾しないし、その後の線引き問題の辿った道を振り返ると、まあ歴史的役割として必要な人だったのかなとも思うがアドホックは避けよといった規範はファイヤア―ベントが想定しているより安定しているように思えて自分としては例えばラリー・ラウダンの網状モデルを支持したくなる。
今ではもうあまりファイヤアーベントは読まれなくなってしまっているように思えるが科学者がファイヤアーベントの描いたような活動をすれば亡霊のように蘇ってくる、そんな思想家かもしれない。自分としてはできれば過去の人としてじっとしていてもらえればそれにこしたことはないと思うのであるが

 

自由人のための知―科学論の解体へ (1982年)

自由人のための知―科学論の解体へ (1982年)

 

 

 

ラリー・ラウダン『科学は合理的に進歩する』

まずはこの邦題に注目されたい。

『科学は合理的に進歩する』

人文学に親しんでいる方なら、タイトルを見ただけで、パラダイム間の共約不可能性とか現象レベルのデータから理論は一つに決まらないという決定不全性だとか、はたまたSTSでもSSKでもなんでもいいが科学○○学を援用してなにか一言言いたくなる衝動に駆られるのではないか。
でもこれ原題は『Progress and its problems(進歩とその諸問題)』で、科学史から生きた事例をふんだんに引いて、相対主義陣営と合理主義陣営それぞれのいささか現実離れしたモデルを批判的検討し、現実に即した科学の進歩と合理性のモデルを構築しようという穏健で堅実な一冊なのですな。
ラウダンの基本的な立場は「科学哲学のテーゼは科学史によってテストせよ」であって、科学史から多くの具体例が出てくるので読み物としても楽しい。しかしそういうアプローチは科学哲学を単に記述的なものにしてしまい批判能力を奪ってしまうのではという声もあろう。しかしラウダンは直観を使う局面がなくなるわけではないという。

ちなみに1977年つまり40年も前に書かれた本なのでその辺も現代の基準を押し付けるのではなく(ラウダンの歴史的アプローチのように)当時の状況を想定しつつ読まれたい。

 

 

 

 第1章 経験的問題の役割


・そもそも科学哲学者の言う相対主義 #とは
競争する理論同士でどちらが優れているか合理的かつ客観的な方法で決めることはできない。教条(ドグマ)やイデオロギーと同じくたまたま人を惹きつけるような有力な宣伝家を味方につけた科学理論や研究伝統が生き残ってきたのだ、という考え方(ちなみにクーンは中立的な観点から優劣を判定できるということを認めている)。

本書の書かれた1977年はそれまでの合理主義的モデルが現実と合わないということも分かりつつあり新しく勃興した相対主義はそれなりに説得力を持っていた。さてどうしよう。

(1)ポパーやカルナップのモデルに小変更を加えればそれでよい。
(2)合理性のモデルを追究するのは無益だ。あきらめよう。
(3)科学の持つ合理性を改めて分析しなおそう。

ラウダンによれば(1)と(2)にここ十数年涙ぐましい努力が行われてきたという(1977年時点)。特に科学哲学者は(1)を取ることが多かった。(2)は歴史に関心を抱く思想家の間で支持された。
ラウダンは(1)は将来性に乏しく(2)は時期尚早であるとして(3)の方策を押し進める。

ラウダンはまずこれまで科学哲学者は、あまりに科学を真か偽かの探求として捉えすぎてきたと述べる。実際は、科学者は外界についての真なる表象(理論)を手に入れるために活動しているというより問題解決のために活動しているといえる。
この2つは似ているようだが「問題を解くこと」は「真なる表象を得ること」に還元されえない。

問題解決が目的ならば理論的結果と実験的結果との間に厳密な一致がある必要はなく、単に近似的な類似があれば事足りるがために経験的問題が解決されることは科学史ではたびたびあるからである。これは科学が「人々を豊かにする」とか「病気を治す」のような生活に実際的に関わっていることも関係する。

ある理論が特定の問題を解決するか否かを決定する際には、真か偽かといったことを考慮する必要はないし、一般に科学者も考えていない。


ラウダンは第1章で科学理論の合理的評価という文脈でいかなる因子が問題の重みづけに影響を与えるのかを分析している。

問題の重みづけに影響を与える因子の例
1変則例の解決…ニュートンによる地球の形状やスペクトル延長部の説明、ダーウィンによる家畜の育種実験の説明、アインシュタインによる光電効果の説明
2原型形成…フランクリンによるライデン瓶の説明
3一般性…いかなる二つの問題p'とpに対して、p'のいかなる解決もpの解決とならなければならない(しかし逆は成立しない)ならば、p'のほうがpよりも、より一般的でありそのため大きな価値を持つことになる。

またかつて重要と思われた問題がそうでなくなることもある。
カール・ポパーは一つでも変則例を持つならその理論は真剣な科学的考察の対象となる価値はない、と主張した。

しかし…

実質的にほとんどの理論はおしなべて変則的な事例を持っている。そして理論の変則例の重要さは時と状況次第で大きく変化する。例えば代わりの理論がないなら科学者はその理論を捨てようとしないこともある。
ラウダンは「ある理論の変則例の重要度を評定することも、領域内の他の競合理論の文脈の中でなされなければならない」と主張する。
物理化学者と比べると、宇宙論や地質学者は理論的予測と実験結果の食い違いに対して小さい意義しか付与しない。分野によって許容精度が異なるのだ。しかしこれは許容限界が恣意的であることを意味しない。測定器械上の制限や数学的制約を、探求下の過程の持つ複雑さとともに反映しているのである。


第2章 概念的問題

科学の歴史をほんの一瞥しただけでも、科学者たちの主要な論争は経験的なものと同じくらい非経験的な論議に重きを置いてきたことがわかる(ファラデーの相互作用理論、分子運動理論などなど)。例えばプトレマイオス体系が現象レベルで予測を行うには申し分のないものであることは批判者も認めていたのである。経験的な支持こそが唯一にして正規なる判定概念であると考えている実証主義者は概念的な論争を空虚で非合理な水掛け論とみなしてきた。

ラウダンはここで概念的問題を2つに分ける。


1.内在的概念的問題(理論Tは矛盾している部分があるよ等)
2.外在的概念的問題(領域を異にする2つの科学理論が緊張状態にあるよ等。例;アダムスミスの経済理論とニュートン的主張)

これまで哲学者や科学者は科学的推論にふさわしい様式に関して定式化を試みてきた。

17C…数学的、論証的(デカルト
18C~19C初期…帰納的、実験的(ベーコン、ロック)

決して驚くに当たらないが、どの時代にも支配的で規範的な科学の像を1つないし複数認めることができる。これらは多くの概念的問題の発生源であった。

18世紀まで支配的だった帰納主義だが、電気学や熱理論、流体力学、化学、生理学などで知覚不能の粒子や流体(つまり観察されたデータから帰納的に推論できない存在)の実在を仮定する理論が現れつつあった。
これらの新しい理論が帰納主義的方法論の研究伝統と共存できなかったことは、根深い概念的問題を生んでいた。

これらの理論を排除せよというニュートン主義者もいたが(主にスコットランド学派)、他のニュートン主義者は規範自体を利用しうる最良の物理学理論と合致するよう変更するべきだと主張した(ルサージュ、ハートリ、ランベール)。
後者のグループによって作り上げられたのが仮説演繹法である。

第3章 理論から研究伝統へ

・理論 #とは
1.実験的予測をしたり自然現象の説明をしたりするための関連教義(仮説、公理、原理)の特定の一群を指す(マクスウェルの電磁気理論、ボーア=クラマ―=スレーター理論、労働価値説など)。
また、
2.理論という言葉は非常に一般的であり、容易にはテストしがたい一連の教義あるいは前提を指す場合にも用いられる。

・研究伝統 #とは
その研究領域内の問題を究明し理論を構築するために相応しい一群の存在論や方法論的な規範

もしその研究伝統の存在論が遠隔作用力の存在を否定するならば接触を伴わない作用に依存するどんな特定の理論も受け入れられぬものとして排除することになる。
ホイヘンスライプニッツなどの「デカルト主義者」がニュートンの天体力学を全く不要と考えたのもまさにこの理由からであった。

3章では、ラウダンの研究伝統とほぼ同じ物を指すラカトシュの「研究プログラム」やクーンの「パラダイム」の批判的検討が行われる。
ラカトシュは研究プログラムの堅い核(ハードコア)は変更されることがないとしたが、例えば初期デカルト主義と後期デカルト主義(ベルヌーイ等)そして初期ニュートン主義と後期ニュートン主義(マイケル・ファラデー)はそれぞれ著しく違っていたし、マッハとフレーゲニュートン主義のほかの要素のいずれも時間と空間の絶対性を必要としないと主張した後、これらの概念はニュートン主義の研究伝統の周辺部へと明らかに移動したのであった。

また科学者はしばしば二つの異なる互いに矛盾してさえいる研究伝統に代る代る属して研究を行うことがある。これは昔の科学哲学からすれば非合理な行動ということになってしまう。しかしこれは不合理なのではない。科学者たちには自分たちが受容していない理論に基づいて研究する充分な理由があるのである。

また、パラダイム間の共約不可能性については、ニュートン主義者もデカルト主義者も自由落下について語ったが彼らは同一の問題を解いていることを認めていたように、2つの研究伝統で共有された問題はすべてではないにせよ多く存在したとラウダンは指摘する。

4章 進歩と革命

・科学の進歩 #とは
ヒューエル、パース、コリングウッドポパー、ライヘンバッハ、ラカトシュ、シュテークミュラーまで共通して
進歩の必要条件を「理論T2が理論T1の解決したすべての問題を解いていなければならない」とした。
しかしこの進歩のアプローチは効力を持たない。科学史でこの必要条件が満たされることが稀だからだ。
アナーキー科学哲学者ファイヤアーベントが正しくも指摘したように古い理論が新しい理論と置き換わるときは、通常、問題の獲得ばかりではなく問題の損失も伴うのである。
ラウダンは経験的問題に相対的重要度があることを認めることによってこのような状況を処理できると主張する。

こうしてラウダン

(1)比較的多くの重要な問題を解決する理論がより進歩しているといってよく、
(2)特定の研究領域においてその時代で最も高い進歩を示す研究伝統を受容することこそが科学の合理性であるとしつつ、
(3)合理性を成立させている特定の因子の多くは時代や文化に依存するという事実を許容し、

後知恵で現代の合理性の基準を押し付けることを回避しつつ過去の理論についても合理性の基準を用いて規範的に語ることができるような柔軟で現実に即したモデルを提案する。

5章以降は応用編

第7章 合理性と知識社会学

科学社会学者はよく科学的信念は歴史的・社会的に決定されるという主張を行う。
しかし、我々が厳格な社会決定論を避けるのであればどのような種類の信念が社会学的分析の対象となり、そしてどのようなものがそうならないか、という問題に直面することになる。
ラウダンは「社会学者は教科書的な帰納主義を神聖で最終的なものと決めてかかったため思想史の多くのエピソードを非合理(それゆえ社会学的)だと考える傾向をもってきた」となかなか手厳しいが、ラウダンのモデルからは説明できないようなケース

1進歩を示さない理論を追究するとき
2変則例を本来以上に大きいか小さい評価を与えるとき
3同じくらい妥当な2つの研究伝統から選択しなければならないようなとき

このようなケースでは社会学者や心理学者を仰いで理解を求めねばならない、と述べる。

 

 

 

太田紘史編『モラル・サイコロジー 心と行動から探る倫理学』

道徳的判断に関わる心理や行動についての記述的探究を紹介しつつ、それが「〜してはならない」や「〜すべき」といった規範を扱う倫理学説にどう関わってくるかを扱うモラルサイコロジーの本。
なんだか倫理学にケチをつける分野なのではと警戒する読者もいるかもしれないがそういう記述はほとんどない。むしろ書き手の多くが哲学者や、哲学に精通している科学者なだけあって倫理学的含意のみならず、そういった科学的知見自体についての概念的考察にもかなり重きを置いている。

出てくる実験の中にはここ何年かのまさにモラル・サイコロジーのために行われた実験もあれば、もっと昔の心理学的実験をモラル・サイコロジーのために再利用しているものもある。心理学の本に親しんでる読者なら、表にアルファベット裏に数字の4枚カード問題とか、最後に答える被験者は周りの人(サクラ)の意見に合わせがちだとか、どこかで目にしたり読んだりしたことのあるものも多いと思うが、道徳の生得説や徳倫理学の概説など日本でもあまり紹介されてない記述ももちろんたくさんあって勉強になる。

私としては心理と倫理を組み合わせることにつきまとう以下のようなテンプレ的な突っ込みに対して著者たちが真摯に考え、答えているところに何より感動する(論文に対して感動ってどうなんだって気もするが)。

ハーバート・スペンサーが…」
自然主義の誤謬が…」
「心理学用語の素朴概念との乖離が…」
「社会や環境による違いが…」
「そのような科学的知見が広まれば社会は今まで通りとはいかないのではないか」

書き手は9人ということで全員がすべてに答えているわけでもないし、説得されない人もいるだろう。もしそうなら反論を考えてみるのもいい。
以下は各章についての読書メモとか簡単な感想。


第1章 道徳的行動の進化的背景

霊長類の行動を進化の観点から研究している著者が人間の利他行動を進化生物学的基盤から考察。血縁者に対する利他行動なら進化学的にもわかりやすい。でも人は会ったこともない人にも寄付を行ったりする。さらに人には道徳規範なんてものがありそれに従ったりする。そして規範は文化によって異なる。それらを進化生物学でどう扱うのか?スタノヴィッチはshort-leash型の制御方式、long-leash型の制御方式という理論的概念で説明する。変化のない環境ならば細かく造り込まれた融通の利かないshort-leash型の制御方式が向いているが、環境の変化が激しいならある程度自由にふるまわせる柔軟なlong-leash型の制御方式のほうが向いている。しかしあまりに自由がきくと個体にとっての利益と遺伝子にとっての利益が一致しないという事態も生じる(例:避妊手段を講じた性交)。ヒトはlong-leash型なので自らが適応すべき環境を自ら作り上げてしまう。例えばカント的な道徳規則に従うことは、必ずしも遺伝子の利益のためにはならないかもしれないが、集団の成員のほとんどがカント的道徳規則に従っていれば、そこではカント的道徳規則に従うことが最も個体にとっての利益になる。読みながら、あまり経験的探究を援用しないアプローチの哲学者や社会学系の研究者が一番首をひねる章かもしれないな、と思った。まあ道徳規範についての進化的考察はまだ始まったばかりで今後の発展が期待される分野であるとのこと。


第2章 道徳心理の進化と倫理

ダ―ウィン以降の進化学と倫理学との関係の歴史を概観する。英米系ならムーアやシジウィックの批判が有名だがプラグマティズム哲学者のデューイも進化学を倫理学に応用することに批判的だったなどの話が面白い。ピーター・シンガーやジョシュア・グリーンによる、道徳判断の感情と推論の二重過程から含意されることとして、直観(感情)に基づく道徳判断は正当化できず、残る功利主義が望ましいという主張の話などなど。


第3章 生まれいづるモラル――道徳の生得的基盤をめぐって

我々の道徳判断というふるまいは誰かのふるまいを見たり聞いたりして学習したものだ、というのはもちろん否定できないとして、果たしてそれに尽きるのだろうか。つまり生まれつき持った能力や知識のようなものがあるのだろうか。言語学では生まれたばかりの他の動物を人の住む部屋で育てても話すようにはならないといったことから(どのような理論で説明するかは見解が分かれているものの)人の言語の生得的な基盤について概ね認められている。そうした知見を道徳の領域に応用した新・生得主義というのが今脚光を浴びているらしい。著者は最近の新しい道徳生得説の動向を概説し、批判的検討を行う。さらには日常概念である「生得性」とはどんなものであるかについて、ステファン・リンキストらによる実験哲学の成果や生物学の生得性概念をめぐる論争を手掛かりに考察する徹底ぶり。最後に遺伝的要因が不変で環境要因が可変であるというナイーヴな遺伝観を捨てた上で、生得的基盤が道徳獲得に対して与える制約については規範倫理学において考察されるべきであると述べる。


第4章 感情主義と理性主義

ホッブズやヒュームにまでさかのぼることができる「道徳判断は(認識論的な)信念ではない」という感情主義。近年は認知科学や神経科学の発展に伴い道徳判断の感情の役割は重視されてきている。といっても実証研究のみによってすすめられるものではなくメタ倫理学との双方向の交流もあり、プリンツのように感情を社会的、文化的、歴史的な観点から統合的に理解しようという試みもあるのだとか。



第5章 道徳直観は信頼不可能なのか

「10人中3人が助かる」→「10人中7人が死ぬ」のように倫理に関する質問の言語表現が変わるだけで直観的判断が変わるというような経験的知見は多数ある。シノット-アームストロングはそのような事実から直観主義を棄却しようとする。著者はシノット-アームストロングの論証を最大限強力なものとして理解したうえで論証の健全でない点を指摘し、直観主義を擁護する議論を展開する。


第6章 道徳判断と動機

若手の多い本書の書き手の中ではベテランである信原幸弘さんの章。道徳判断には動機が必然的に伴うとする内在主義。動機が伴わないことが可能であると示せれば内在主義は成り立たなくなるのだがサイコパスVM患者という事例から内在主義を批判する理論家もいる。内在主義が正しいにしても動機が道徳判断の構成要素と考える構成的内在主義と、動機と道徳的判断は別という非構成的内在主義のどっちが正しいのかという問題が残っている。著者は道徳的判断をミリカンのオシツオサレツ表象を洗練させたものとみなして構成的内在主義を擁護する提案などしている。あまりサイコロジー感がないというか概念的考察度の高い章。


第7章 利己主義と利他主義

マンガやドラマで、ある登場人物が他人のために何かをして(などと記述されるようなふるまいをして)、ほかの人物に「そんなにチヤホヤされたいかねえ」とか「自己満足だろ?」などと言われているシーンを見たことはないだろうか。というか私こないだ刑事ドラマで「人は自分のためにしか何かをすることができないというのが僕の考えなんです」ってセリフを主人公が言ってるのを観たんですが。
そういうホッブズまでさかのぼる利己主義の考えを現代哲学者が心理学や進化学の知見を検討しながらガチで考えるとこんなに面白い!という章。エリオット・ソーバーやスティッチ、マシェリといった豪華なメンツによるここ何年かの論争が日本語で読めてしまう。ところで、利己主義を「信じる」ことで利己的な人間を生み出すのではないか?利己主義を信じると人生の有意味感や充実感が減少するのではないだろうか?著者は最後に心理的利己主義を「信じる」ことの影響についても考察する。


第8章 徳と状況――徳倫理学と状況主義の論争

人は状況が変わっても一貫する道徳的な性格(徳)をもつとする徳倫理学と状況に左右されると考える状況主義の対立を概観。状況主義者はムード効果や傍観者効果といった社会心理学の知見を使って徳倫理学を批判するというテンプレ的な流れがあるわけだが、実験の解釈の点で問題もあるし、状況主義者は徳概念を単純化しすぎだという反論もある。また、完全な徳を持つ人はまれで普通の人々には弱い徳が備わっていると考える両立的な立場もある。徳倫理学は包括的な説明が難しいといわれるらしいのだが、いい見取り図が得られたと思うし、足りない部分は註での充実の文献情報でカバーしていると思う。


第9章 文化相対主義の克服に寄せて――道徳的/慣習的規則の区別に関する論争を手がかりに

日本の社会科学の哲学のパイオニア吉田敬さんが登場。テーマは文化相対主義
キリスト教化や植民地化を押し進めた負の歴史がある以上、自文化中心主義を退けて、異文化の行為や慣習に寛容でなければならない、などと言われる。とはいえ、文化相対主義を極めてまじめに受け取るとカキアと呼ばれる女性器切除のような慣習(実際にあり、慣習を恐れてアメリカに亡命した例もある)に対して批判を行うことが難しくなる。しかしジェイムズ・レイチェルズは(1)ある文化的慣習に対して道徳的判断すること、と、(2)キャンペーンを行い、外交圧力を加え、介入すること、を区別し、(2)を恐れて(1)を全く行わないことの問題を指摘する。また合理性を程度問題と考え、互いの違いを尊重しつつ問題のある所を指摘し修正していく可能性にも触れる。

モラル・サイコロジー: 心と行動から探る倫理学

モラル・サイコロジー: 心と行動から探る倫理学

ハロルド・ハーツォグ『ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係』

やまがたさんが訳し、スティーブン・ピンカーも賞賛、ということから察しがつくと思うが、ジョナサン・ハイトやジョシュア・グリーン、マーク・ハウザーといった勢いのある科学者が出てくる科学寄りの本。倫理学の話も出てくるがそれメインではない。
原題は「Some We Love, Some We Hate, Some We Eat」という。

こんなエピソードが載っている。
気まぐれに持ち帰った実験用のネズミを子供にプレゼントした。家族でネズミをかわいがり、やがてネズミが死んだあと庭に墓を立てて埋めた。
その後台所に別のネズミが現れた。そのネズミはすぐに殺して、ペットにしたネズミの墓の近くに捨てた。

本書は人間が動物に対していかにイビツな態度をとっているかを示す心理学・人類学のデータがこれでもかと載っている。

わたしたち動物に対する考え方は、たいていの場合、その生物種の特徴によって決定される。魅力の程度、大きさ、頭の形、ふわふわとした毛に覆われているか(これはプラスの評価)、それともぬるぬるしているか(こちらはマイナスの評価)、どのくらい人に似ているか、あるいはどのくらい賢いと私たちが考えているか。足の数が多すぎるのも足りないのも嫌われる。ふんを食べたり、血を吸ったりという気持ち悪い習性もダメ(p.49)


これは自分の直観からしてもけっこういい線いってると思うが読者はすぐさま反例を思いつくだろう。
ハーツォグはサウジアラビアでは犬は一般的に嫌悪の対象にされている例などを挙げ、文化・環境の影響の大きさも強調する。

一般にアメリカ・ヨーロッパでは犬を家族とみなすが(ただし北米先住民は犬を食べていた)、コンゴ川流域の人々は肉を柔らかくするために犬をじわじわ殴り殺す習慣がある。
こういう習慣はチンパンジーにも見られ、チンパンジーは好物である動物(アカゲコロバスザルなど)のはらわたをくりぬいて殺したり、腕や脚を引きむしったり頭を木の幹や岩に叩きつけたりするらしい。

とはいえチンパンジーの食べる量はヒトに比べたら少なく、アメリカ人全体で年間324億kgの動物肉を食べる。
これは科学実験で殺される動物の200倍、保健所で安楽死させられるイヌの2000倍。

そういったことを知って菜食主義者になる人もいるのだが調理の面倒さや健康状態の悪化、友人関係の悪化(海外でも「意識が高い」みたいな話法があるんだろうか)などでやめてしまう人も多いらしい。また、大抵のムーブメントにつきものではあるが動物解放を求める人たちの中のごく一部には動物実験を行う自然科学者に脅迫状を送りつけるアカン人もいるということを付け加えておこう。

心理学者のジョナサン・ハイトは哲学者ピーター・シンガー『実践の倫理』を読み、説得されたが、ハンバーガーを食べるのはやめられなかったんだとか。…なんかジョナサン・ハイトのイメージが変わるな。

著者ハーツォグはそういった一貫性のなさを嗤うのではなく、「肉も食べるけど前よりずっと減った」と書いているし、「闘鶏は残酷で正当化できない」とも書いている。時に畏怖すら感じさせるストイックな哲学者と比べそのとても穏健な立場は、(自分も含めた)動物倫理学から遠いところにいる多くの人たちにも受け入れられるかもしれない(哲学者の児玉さんとか一ノ瀬さんとかはその点に関して尊敬してますが。この流れと名字でピンとこない人は気にしなくていいです)。


こちらは哲学者の伊勢田哲治さんによるコメント
http://blog.livedoor.jp/iseda503/archives/1660499.html


ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

日本動物心理学会監修『動物たちは何を考えている?動物心理学の挑戦』

色の見え方の進化的説明とか(恐竜の時代に哺乳類は夜行性だったので4つの錐体(すいたい)のうち2つを失ったが果実食への適応で3色型を取りもどした等)好き嫌いや薬はだんだん効かなくなるといった、本書に登場する大抵の話はヒトのサブパーソナルな領域の研究読んでるのとあまり変わらなかったが個人的に興味深かったのが第5章の「動物だっていろいろ考える」。
パーソナルレベルというか志向的レベルというか、その辺どこまでできるのか気になるというのがあったのだけどやっぱこのレベルだと言語による報告がないと難しいようだ。
ハトやアカゲザルも推論できることを示したという実験については、とっくにたくさん言われてるんだろうけど単純な学習の成果という筋道もあるのではないかと思った。
しかし実験方法についてざっくりとしか書いてないうえ参考文献がついてないのでこれ1冊でガチで検討しようと思っても難しい。
なので気になった実験は「アカゲザル メタ記憶」とかのキーワードを適当に拾って検索して日本語の記事や論文をチェックするとかしてた。

ヒト以外の動物も単語とか画像を記憶すること自体はけっこうできるんだけど(ハトなら700枚ヒヒなら3200枚)やっぱり組み合わせて文を作ることが難しいらしい。チンパンジーだと手話を使って「赤ん坊 嬉しい」ぐらいのやりとりは出来るようだけど頑張っても平均1.5単語程度。その点はさすがホモコンビナンス。

なんというか清々しいほどあらゆる意味での哲学っぽさがなかったw
いやまあ基本中の基本をざっと知りたかっただけなのでそこはまったく問題ないんだけど入門書の次に読むべきブックガイドとか参考文献リストは巻末に付けててほしかったかな。

動物たちは何を考えている? -動物心理学の挑戦- (知りたい! サイエンス)

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トマス・ディクソン『サイエンスパレット・科学と宗教』

ベリーショート更(略

タイトルについて、科学/と/宗教ということなのかと思っていたら「科学と宗教」という分野がいちおうはあるらしい。
ヨーロッパ学会や国際学会もあるので、へぇそんなにと思うがどれぐらい盛り上がってるかはわからない。
http://www.esssat.eu/
http://www.issr.org.uk/

なんとなく必要な気がするので原著者紹介するとトマス・ディクソンさんはロンドン大学クイーンメアリー校歴史学上級講師でタイムズ文芸付録(T.L.S)で書評を執筆しているひと。
そして宗教といっても、本書に関してはキリスト教中心でブードゥー教とか仏教は扱っていない。「科学と、宗教・神学・ID等との論争史、時々科学哲学」みたいな内容。

有名な科学者の宗教がらみのエピソードとかは面白く読んだが自分に言える範囲でちょっと気になった点2つ。
1つ目。科学哲学的な実在論について、悲観的帰納法の話をするのはいいのだが、前後の流れから科学の相対化に都合のいい話として読む読者がいそうだ。
悲観的帰納法のラリー・ラウダン相対主義に反対する合理主義者であったので、科学哲学的な実在論についてもう少し説明がいると思う。

2つ目。線引き問題について、科学哲学者のあげる線引き基準が検証可能性と反証可能性で、それに対して「これでは十分ではない」って、流石にちょっと知識が古すぎないだろうか。
ディクソンは歴史屋さんなので仕方ないかもしれないが、これだと反証主義が最新の科学哲学の見解でそれがどうもダメっぽい、というふうに読者を導きそうだ。
たしかに反証可能性では厳密な線引きにならなかったが他にもいろいろ基準があって合わせ技である程度は引ける、といった見解もあるのでそっちについても紹介してほしかったというのが正直なところ。

ディクソンはぎりぎりのところで非相対主義にとどまるのだが、人によっては(より強い合理主義の方とか)アウトな記述もあるかもしれない。

科学と宗教 (サイエンス・パレット)

科学と宗教 (サイエンス・パレット)