フランソワ・レカナティ『ことばの意味とは何か』

レベルの高い分析形而上学の議論をTogetterとかで読むと論理学べんきょうしたくなるのである。というわけで今度問題集でも買ってこよっかな。


さて、本書は「フランス」で「現代」で「哲学」ですが「フランス現代思想」ではありません。
著者であるフランス出身のフランソワ・レカナティはヨーロッパ分析哲学会設立者の一人で、ある時期はその会長もつとめた人。

本書が扱ってるのは自然言語意味理論〜語用論で、東京での講演やスペイン分析哲学会での講演を基にしているようですね。

ヨーロッパ分析哲学
http://www.dif.unige.it/esap/

本書はフレーゲ、ダメット、グライスといった分析哲学の偉人の豊かな成果を独自の語用論に取り入れたり検討を加えたり、語用論的に興味深い例文を豊富に使いつつ、明晰で周到な議論を展開してる。

レカナティはルース・G・ミリカンやタイラー・バージのように、伝達というものは本質的に推論能力から構成されているものではないという見解をとる。ただし、レカナティは「言われていること」と「含意されていること」にわけ、後者へは推論を使って至ると考える。
図にするとこんな感じ*1

(1)文タイプの意味的潜在性……規約に基づいておりコンテクストはほとんど関係なし。完全な命題を構成しない。
(2)言われていること……(1)に(例えばheやhereに)肉付けしたもの。(1)に制約されている。命題を構成しうる。
(3)含意されていること……(2)からの推論によって、多くの背景的想定を含んでいる。(1)に制約されない。情報の量には上限がない。

たとえば朝に「何か食べますか」と聞かれて「私は朝食は済ませました」と答える場合。
「私は朝食は済ませました」という文は、字義主義よりの立場的にはs(話し手)がt(発話の行われた時点)以前に朝食を食べたという命題を表現している。
だから20年前に朝食を食べたきりそれ以来ずっと朝食を食べたことがなくても真になる。これは明らかに「言われていること」ではない。
「言われていること」はもっと特定的なこと、まさにその日朝食を食べたことを意味しているのだ。
さらにそこから「空腹ではないので、食べ物を出す必要はない」という含意を推論できる。

背景的想定やコンテクスト成分には、期待感、社会や少数のグループに共通の経験、媒体の形式、伝統的な表現法、流行の漫画や映画のセリフなんてのまで関わってくるかもしれない。さらに、「字義的に(規約的意味からほとんど離脱しないように)読ませるように働くコンテクスト」というのもあるだろう。

推論には、注意深く段階を踏みながら行うCEO推論(conscious、explicit、occurrent)の他に、ヒューリスティクスといわれる素早い(が間違いやすい)推論があることはレカナティも認めているが、「前提と結論の間の関係」の接近可能性は満足されているとして第二次語用論プロセスとする。

第一次語用論プロセスには、例えば、シェーマが使われる。シェーマとは過去の経験から生まれた、ある表現がそれと関連をもつ表現を呼び起こす、そのセット、図式のこと。またダンスペルベルのいうように第一次的意味は後から情報を得て解釈を見直すこともありうる(見直し効果)。

ジョンは昨日警官に逮捕された。彼は財布を盗んだところだったのである。

この文から財布を盗んだ候補は「警官」と「ジョン」が考えられるが、[盗む→逮捕]というシェーマによってジョンの表示がより強く活性化され、よりよい候補として選択されることになる。

また、状況から考えて明白に事実の逆のことを言ったり、第一次的でありながら文の規約的意味からの最小限ではない離脱を示す例が語用論の論考の中にはごろごろある。
レカナティはこの一次的意味の内的二重性が(使用者に認識されている限りにおいて)メタファーやアイロニーであると考える(「いい趣味してるね」とか。この場合目線や表情もコンテクスト成分に含まれている……ってことかな?)。

たとえばシェーマとシェーマを状況に(部分的に)当てはめた結果つくられる意味との間に不釣合いの感覚を生むことがある。
それは我々が慣れ親しんだ例(「パソコンがスリープする」とか)から非字義的性格が嫌でも目に付くものまで様々ある。
その中でもある閾を越えたものが特殊なケース、例えば「比喩的な」使用とみなされるというわけだ。

慣れ親しんだメタファー(パソコンがスリープ)と、不釣合いの感覚が原因となってメタファーだとはっきり意識されたメタファーとの区別についてはRenate Bartschという人がThe structure of word meaningsという論文でやってるので興味があったら読むように、とのこと(拙者は未読でござる)。

その都市は眠りについていた。

これは「眠りについていた」のほうを字義的に取れば[人間や動物→眠る]のシェーマによって、都市は「都市の住民」という意味に受け取られることもあるし、「都市」のほうを字義的に取れば「静かで(経済活動など)ほとんど活動していない」という意味価になる。あるひとつの構成素の解釈の仕方は、他の構成素の解釈の仕方に影響を与えずにはおかないのだ。


というわけでレカナティの意味論〜語用論を簡単に紹介してみたが、やはり字義主義からの反発は強いかもしれない。わざと文の規約的意味からかなり離脱した解釈をして「お前の言ってることはこういうことだろう!!」とかね。
レカナティは、いかなる場合もことばは確定した内容を持たない、のような主張をしているわけではないのであるが。本書ではデイヴィドソンの真理条件的意味理論を批判したり字義主義寄りの論者(レカナティの立場とごりごりの字義主義との間には様々な中間的立場があり本書で扱ってる)からの「意味的内容はもっと安定性があるのではないか」という反論に答えているので「納得いかねえ」という方はレカナティの見解に挑んでみては。


ことばの意味とは何か―字義主義からコンテクスト主義へ

ことばの意味とは何か―字義主義からコンテクスト主義へ

*1:サブパーソナルというのは血液循環や肝臓によるアルコール分解のように本人の意思によって左右できない意識下の事柄。

ピーター・ディア『知識と経験の革命―科学革命の現場で何が起こったか』

訳者あとがきによれば、著者ピーター・ディアは世界的な科学史研究誌『Isis』に掲載された論文を精選して編集することを委託されたりと厚い信頼を受けている科学史研究者で、現在はコーネル大学で科学史・科学技術論を講じている。2001年刊行の本書は翌2002年にアメリカ科学史学会からWatson Davis and Hlen Miles Davis Prizeなる賞を受賞しているとのこと。

歴代の受賞作↓
http://www.hssonline.org/about/society_davis.html

本書は1500〜1700年の200年間の科学革命を扱った一般読者向けの科学史・哲学史

長年にわたる古典的な科学革命観はというと、それまでの時代の魔術的なるものを一掃した(テレレッテレ〜☆ みたいなイメージだったが、本書によれば実際はもっと事情は複雑だったようである。神学や錬金術といったものは18世紀に入っても科学革命の担い手の間で残り続けたし、当時の政治状況やパトロンからうけていた庇護関係などからモロに影響を受けていたこともわかってきている。


科学史なんか読むとアリストテレスデカルトが重要人物として出てきて、アリストテレスだったら海の生物の観察・解剖したりといったことが書かれてて、血液循環論のハーヴェイやらダーウィンアリストテレスにリスペクトを表明したりしておりますな。中世〜初期近代のスコラ主義の人たちはそういうアリストテレスの生物学っぽい仕事(著作でいうと『動物誌』あたり)は軽視して、もっぱらアリストテレスの、論理的になぜそれが起こったかの説明を与える、という今からみても哲学っぽい仕事(著作で言うと『形而上学』あたり)に注目した。

天文学とか医学とかで数学的・量的な研究も行われていたけれど、それは自然本性について「説明」を与えることができないとして軽視されてきた。だけれども技術の発達やらヨーロッパ人による新世界への海外進出やらで、説明されるものが最初から確立しているスコラ-アリストテレス的世界観ではいかんともしがたい事例が出てきて、新たな発見に満ちた探求されるべき巨大なフィールドとしての自然界に目が向けられるようになるわけだ。

しかしその内実について細かくみていくと、科学革命の担い手たちは、まだまだスコラ-アリストテレス的性格が残っていたし、哲学という呼び名にこだわって自分のやってる営みこそが哲学だと認識していたし、実験的探求が広い支持を得るため王や貴族といった権威に擦り寄ったり*1、泥臭い事情がみえてくる。
フランシス・ベイコンは法律家でもあり、自然哲学を国家と中央集権的制御との利害関心に合うような改革として進めたとか、他にも──後の合理的経験論を強調する「ニュートン主義者」が結果的に隠してしまったのだが──ニュートンの主要な関心が神学と錬金術だったことなど、古典的な科学革命観に揺さぶりを与える歴史記述が本書にはデデデーンと載っている。

ここからいきなり相対主義(科学哲学的な意味で)に流れるのはさすがに単純すぎると思うけど、先端の研究を誰がどの程度支援するかという問題は現代まで貫いているし、デカルトアリストテレスからホッブズライプニッツといった、現代からみてジャスト哲学者な人もわさわさ登場するし、科学技術の倫理学がホットなトピックな今(ぼくが勝手にそう思ってるだけかもしれない)、幅広く読まれたらいいじゃないとアタイは激しくレコメンしておきますお。

知識と経験の革命―― 科学革命の現場で何が起こったか

知識と経験の革命―― 科学革命の現場で何が起こったか


あわせて読みたい
科学の社会的・制度的側面を認識論的に分析する(日本ではまだあまり広まってない)研究領域についての本。

認識論を社会化する

認識論を社会化する

*1:ニュートンの『プリンキピア』はエドムンド・ハレーのポケットマネーで出版したそうだ。フランスの科学アカデミーと違いロンドン王立協会は国家から交付金を受け取っていなかったなど国ごとの違いも面白い

セドリック・ブックス『言語から認知を探る―ホモ・コンビナンスの心』

セドリック・ブックス。

ベルギー出身で、ハーバード大学助教授、准教授を経て、現在はスペインのカタラーナ高等研究所・バルセローナ自治大学の研究教授。
専門は生物言語学、理論言語学
本書はハーバード大学での学部生用の講義を基にしているとのこと。サブタイトルにある「ホモ・コンビナンス」とは「組み合わせる能力のある人類」という意味で最終的なブックスの主張でもある。


前回のエヴェレットがチョムスキー派の「ユダ」だとしたら(?)、ブックスは正統的なチョムスキー派。
つまりヒトには本能的(=社会規範とは切り離されている)、生得的な言語能力が備わってますよ、という立場。

で、これ読んで、自分ちょっとチョムスキー誤解してたのかなとオモタ。

よく言語の「柔軟性」「多様性」「社会的・文化的な影響」なんてこと言いながらチョムスキー批判してる人をちらほら見かけるんですが、
自分も直感的に「文化・社会の役割とかどーすんのさ」、とか素朴なことを思っていたわけです。

が、チョムスキーは後期ウィトゲンシュタインやJ.L.オースティン(いわゆる日常言語学派!)をよく読んでいて、社会規範とか文脈依存的で、「記憶の限界」や「同時並行的な思考」に影響を受けた「具体的な言語使用」のことをよく承知していて、生得的能力の「コンピタンス」と具体的な言語使用の「運用(performance)」という区別をしていたということのようです。

んで、ブックスはその2つが両立しうることを何度も強調する。

社会的に依存しているということは「生物学的な」という標識と相容れないと思う必要がありません。(p.83)

チョムスキーが何年も促しているように談話やコミュニケーションの機能や目的とそういう機能や目的を果たすために言語を使うことの根底にある心の装置とを截然と区別すべき(p.163)

そしてブックスは、仏語+グンベ語のクレオール*1オランダ語+イジョ語のクレオールの類似とか、発達心理学やら神経科学、進化学の経験的根拠からコンピタンスの輪郭を浮き彫りにしていく。

ちなみにブックスは哲学もかなり詳しく、バークリーやヒュームが「経験主義」として一般に思われているほど単純なことを考えていたわけではないことも教えてくれる。才気煥発で、この感じどこかで……と思ってたら、デネットだ。そうだな、なんかデネットとかぶる。ブックスは哲学者ではないけれど。

言語から認知を探る――ホモ・コンビナンスの心

言語から認知を探る――ホモ・コンビナンスの心

*1:植民地などで生じる不完全な混成共通語をピジンと呼ぶが、それを作った世代の子供たちが完全に成熟した言語に発達させたものがクレオール

ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン― 「言語本能」を超える文化と世界観』

ピダハンというのはアマゾンの奥地に暮らす少数民族

元々言語研究のためというよりキリスト教者として聖書をピダハン語に翻訳してピダハンの人々に布教するためにピダハンの村に赴いた著者だったが、やがて現存するどの言語とも似ていないピダハン語と彼らの暮らしぶりのユニークさに惹かれ、ついには無神論者に転向してしまう。

右のキン肉マンに出てくる超人・アトランティスを思わせる(そんなことはない)おっさんがエヴェレットだ!
写真だけ見るとイロモノっぽいが(失礼)ピッツバーグ大学の言語学部長も務めたことのある学術論文を数多く発表している言語学のえらいせんせいです。

原著のタイトルは"Don't Sleep, There Are Snakes"で、これはピダハン流の「おやすみなさい」の言い回し。
amazon.comでは☆5を大量にげっとしている。あぁ、ジョン・サールやピンカーも褒めてんだねえ。
まあ、エヴェレットの説はピンカーの説と言語学上ぶつかるものであるのだが。

Don't Sleep, There Are Snakes: Life and Language in the Amazonian Jungle [Hardcover]
http://www.amazon.com/dp/0375425020

追記
過激な主張をそのまま信用してしまうのはとてもまずい、という意見も見かけました。たしかにそうですね。これもはっておきましょう。
ピンカーがエヴェレットの主張の強いバージョンとメディアに対して懐疑的になってきていると。他にも「ピンカー エヴェレット」で検索するといいことあるかも。
http://edge.org/discourse/recursion.html

エヴェレットは元々チョムスキーに影響を受けていたそうで「チョムスキーは残らず隅から隅まで読んだ」そうなのだが、チョムスキーやピンカーとぶつかるようなピダハン語における数々の経験的発見は、多くの議論を巻き起こすことになった。

たとえば音声学の主流にけんかを売るような説を打ち出し、音声学の大物・ピーター・ラディフォギッドを呼び寄せてしまう。最初はラディフォギッドはエヴェレットの説に懐疑的だったが、ピダハンの村で共同で精密な調査を行った結果、エヴェレットの見解が支持されることになった。

チョムスキーの「リカージョン(再帰)は人間言語に固有の要素」という説もピダハン語ははみ出してしまう。ピダハン語の構造には関係節を欠いているのだ。ある言語でリカージョンが必要でないなら原理的にはいかなる言語でもなくてすませられるってことになっちゃう。

まだまだある。

ピダハン語には色の概念もない。赤だったら「あれは血みたいだ」みたいに表現する。

数の概念や計算体系もない。エヴェレットは算数を教えようとしたがピダハンは一人として10まで数えられるようにはならなかった。

また「ある記号を二回描いてくれ」と頼んでもまったく同じ模様が描かれた事はなかった。

左右の概念もない。「すべての」「それぞれの」といった数量詞もない(数量詞に近いのはある)。

ピダハンにゃ学校も 試験も 何にもない(ゲゲゲの鬼○郎のOPで再生推奨)。


また、ピダハンは実体験を重視する。
エヴェレットの布教活動に対しても「イエスの姿を実際に見たのか?」と聞き、そして「実際に」イエスを見たり聞いたりしたことのないエヴェレットの話には興味がないと宣言する。ここだけ読むと「お前はバートランド・ラッセルかw」と突っ込みたくなる。
ただ神や神話はないが精霊というのを信じていて、それは目に見える自然そのものだったりする。

ピダハンのユニークさは言語にとどまらない。

人名も時間がたてば「古くなったから」といって変えちゃうし、子供も対等な社会の一員として酒もタバコもやるし焚き火に近づいても親は黙ってみている。

こいつら未来に生きてんな(AA略)。いや、今のは冗談ですけれども。

最後にエヴェレットは、人類学やフィールド調査と切り離された言語学は化学薬品とも実験室とも切り離されて行う化学のようなもので、言語学は心理学に属するものではなく、人類学に属するものになるだろう、と主張する。

それにしても言語学の本としても重要なのは分かっちゃいるが、マラリアにかかった妻子を助けるべく屈強な男に向かっていったり、川で丸太のようなアナコンダに襲われかけたり、ブラジル人商人にそそのかされ酔っ払ったピダハンに襲われかけたり(何回死にかけてるんだこの人っていう)、タランチュラとゴキブリがうようよするところで30年も暮らし研究しているエヴェレット自身が強烈過ぎてどうしても言語学のほうが霞んでしまう(笑)*1

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

*1:実際エヴェレットの人生を描いたドキュメンタリー映画が製作され賞をとったりしているらしい。いやはや。

ゼノン・W・ピリシン『ものと場所―心は世界とどう結びついているか』

著者ゼノン・W・ピリシンは1937年生まれ、ラトガース大学に在職し、同大学認知科学センターの所長も勤める認知科学の重鎮の一人。


チザムやシュリックといった古典的認識論の哲学者は、ある内容を持った信念が別の信念を正当化して…という一連の流れをどうやって打ち止めできるか、という問題に対し、信念よりもっと原初的な感覚(所与とかセンスデータ)とかいう答えを与えてきた。それに対し、本書でもピリシンがちょこっと言及しているように、哲学者のウィルフリッド・セラーズはそんなものは感覚印象と命題的内容を持つ知識をごっちゃにしてでっち上げられた「所与の神話」にすぎないといって批判したのだった。

本書は「?」の部分についての哲学的&経験的探求といえる。

1〜3章は視覚における対象把握が主題。

これまでクワインやストローソンといった哲学者は、知覚において何かを同一のトークン事物として同定することには概念化が必要であると理解してきた。ピリシンはそれに部分的に同意する。しかし、対象把握がこのような概念的な表象にのみ基づいているとすると因果的な情報処理過程にどうやって位置づけるのか。ピリシンは無限後退を避けるためには原初的な因果的つながりに基礎付けられなければならないと考える。そこでピリシンが提案するのが視覚的指標=FINST(Fingers of INSTantiation)の理論だ。

視野内の諸事物を同一のトークン事物として同定し、コード化による高次の概念的述定の基盤を提供するのが、初期視覚に組み込まれた、非概念的でサブパーソナルなFINSTの機能なのだ。ただし「久しぶりに友人に会う」といった明らかに長期記憶を使う事例はFINSTの機能からは外れる。

その際「位置をコード化&位置情報を継続的に更新してるのではないか」といった想定される他の説を、ピリシンは「多対象追跡実験」という巧みに操作された実験によってその仮説を排除している。

◇残された課題(テクニカルなので読み飛ばしておkです)


ピリシンは哲学者ソール・クリプキの指示の理論*1に言及しつつ、FINSTはそれとは違い、徹頭徹尾、因果的なプロセスであるため、「対象の表面で反射された空気中の光の配列パターン」、「網膜像」、「神経諸領域」といった因果連鎖を構成する媒介項の中で、特定の項を述定された性質をもつものとして決定するのは何なのか、(私が犬を知覚するという状況なら)FINSTが指示し、私が表象するのが「外界に存在する犬」という対象であることは何によって保障されるのか、という問いを提起している。
ピリシンはこれを「指示がどうやって自然化されるかの大問題」のひとつであり、本書の範囲を越えていると述べるに留まる*2

4章ではFINST理論からやや離れ、「意識経験」が主題。
経験の内容はそれを経験するものには透明であるという見解やギブソンの直接知覚理論が批判的検討され、意識経験が特定の表象レベルに対応するという見解が斥けられる。ピリシンは意識経験は複数のタイプもしくはレベルの表象の混合物であり、(閾下知覚の研究などから)意識経験についての一人称報告は特権的な証拠ではなく心的内容に関する証拠のひとつに過ぎない(しかも誤りうる)と結論する。

言いかえれば、意識経験とは、一部の哲学者が措定しているような「豊かなきめ細かい非概念的表象」に対応したものでない。

図にまとめるとこうなるだろか(チープですいません)。

この図は私があちこちのページをいったりきたりしながら作成したのであってピリシン本人が作成したものではありません。念のため

もっとも「命題的態度」とかも自然化を虎視眈々と狙ってる人には不徹底に見えるかも知れぬ

本書では空間の表象や視覚と想像の違いなどのトピックも扱っており(一度だけネルソン・グッドマンが引用されてる)、現象学とか美学の人も興味深く読めるかも。

ものと場所: 心は世界とどう結びついているか (ジャン・ニコ講義セレクション)

ものと場所: 心は世界とどう結びついているか (ジャン・ニコ講義セレクション)



ちなみに『ものと場所』読む前に読んだほうがいいかなと思ってこれも読んだ。
勁草書房から出てる横澤一彦『視覚科学』
視覚についての純然たる経験的探求。これはこれで面白かったけど、『ものと場所』とは思ってたより関係なかったw

視覚科学

視覚科学


付録2

「表象ってなによ」ってひと向けの戸田山せんせの解説

ところで表象(representation)とはいったい何か。まずはこのことから説明していこう。最も広い意味で言うならば、表象とは何らかの他の対象を意味し、代理しているもののことである。(…)しかし、いま問題にしているような「表象」といえば、たいていは「心的表象」のことである。「猫」という言葉は音(空気の振動)とか紙の上のインクの染みという形で、猫の絵は布と絵の具の塊という形でこの世に存在している。これと同様に、心的表象も心(脳)の中に何らかの仕方で物理的に実現しているのだろう。

心的表象の実現のされ方はまだよくわかっていない。モデルの数だけ考え方があるといって良いだろう。しかし、ともかく何らかの仕方でわれわれの頭の中にはさまざまな対象についての表象が実現されていないと困るのである。なぜか?ケヴィンが「メアリーはジョンを愛している。だけどジョンはメアリーを愛してはいない。ジョンが愛しているのはケイトだ。まてよ、ここでケイトもジョンを愛しているとすると……」とかなんとか考えているとする。ケヴィンはメアリー、ジョン、ケイトについて考えている。もちろん、これらの人々が、ケヴィンの頭の中にいるわけではない。ケヴィンが考えているときに彼の頭の中にあるのは、この人たちを意味する(指す)、この人たちの代わりになる何ものかのはずである。これらがつまるところ表象と呼ばれる。この人は、メアリー、ジョン、ケイトの表象を頭の中にもっており、それらを操作することによって、彼らについて、彼らがいないところにおいてもいろいろと考えることができる……と、こうなっているはずである。物理的正体はさっぱりわからないまま、認知科学で表象というものが想定されているのは、こうした理由による。(…)ここまでなら古典的計算主義者も大方のコネクショニストも同意してくれるだろう。同意しないのは、知的で適応性に富む行動のためには表象は必要ないと主張する一部のラディカルなロボット工学者や彼らに賛同する哲学者くらいのものである。
(『心の科学と哲学』(序章の戸田山和久パート) p.17)

*1:命名の儀式から始まる因果の鎖が固有名による指示を可能にしてるってやつ

*2:これに対する見解のひとつにルース・ミリカンの目的意味論がある

スティーヴン・クレスゲ編『ハイエク、ハイエクを語る』

これは経済学がどうこうというより20世紀初期ウィーンの状況とかに興味があって手に取った。
本人の手による自伝的ノートをベースに、トピックに関連するインタヴューが合間合間に挿入されるというちょっとユニークな構成。

狭義の哲学者ならぬハイエクの視点から語られる論理実証主義の記述や、当時のウィーンのユダヤ人問題とか、意想外に得られたものは大きかった。

ハイエクのひとつ前の世代の物理学者エルンスト・マッハの哲学が20世紀初期のウィーンで支配的な影響力をもっており、エルンスト・マッハ協会の後身であるウィーン学団ハイエクの所属していたサークルとには共通のメンバーがいたので、その人物を通じてハイエク論理実証主義の考え方を学んでいった。あの経済学のビッグネーム、シュンペーターハイエクとほぼ同時代にオーストリアで生まれているが、やはりエルンスト・マッハに全面的にほれこんでいたという。

しかし彼らの経済学、社会科学に対するナイーヴさにハイエクは懐疑的になる。対象の複雑さゆえにマッハ的実証主義は厳格に適用はできないと。そんな折にポパーの科学哲学を知り、我が意を得たりと思ったそうだ。ポパーとは哲学面でかなり共通のものがあると認めており、イギリス移住後は「非常に親しい友人」となった。ハイエクウィーン学団のアイデアが極端であったがゆえに経済学の分野ではうまくいくものではないと気づくことができたと回顧している。

他にもポパーが『隷従への道』を賞賛したのをカルナップが叱責したとか、寝台車でハイエクと従兄弟であるウィトゲンシュタインと同室になって政治について議論したエピソードとか、まあウィトの場合あまりハイエクの思想に直接絡んではこないけど、チラッと出てくる哲学者との絡みはやっぱり面白い。

他の経済学者との関係に言及すれば、一般に仲が悪いとされている(?)ケインズ(大雑把にいえば「リフレ派」もこの人の流れ)について「個人的には仲がよかったのであって、私は多くの点で、人間としての彼に対しては最大の賞賛と親愛の気持ちをもっていた」なんていいつつ、別の箇所では「ケインズは19世紀の経済学に無知だった」「多くの点で彼を賞賛しているがよい経済学者だったとは思えない」とも。ケインズケインズで『隷従への道』が出版されたときに賞賛の手紙を送ったが、その中で不満も述べている。意見を異にしつつ互いの才を認め合うよきライバルといった感じ?

また、一緒くたにされがちなミルトン・フリードマンシカゴ学派)に対しては大体において意見が一致するとしつつ、数理経済学的な傾向や通貨政策については批判的で、フリードマンの『実証経済学論集』の批判を展開しなかったことを後悔していたり。
ゲーム理論をどう評価されますか?」という質問に対しては経済学に重要な貢献をしたとは思わないが非常に興味深い数学の一分野だと思う、なんて発言も。



資本主義は、われわれが、理性的洞察力と別に、様々な道徳を伝統によって授けられてもっていることを前提にしています。それらは、進化によってテストされてきたものですが、われわれの知性によって設計されてきたものではありません。われわれは、その様々な帰結を理解したから所有権を発明したのではありません。家族制度も同じです。それらは、偶然の伝統、本質的に宗教的な伝統なのです。(p.61)

「進化」の用法が若干気になるが、ここなんかは、コミュニタリアンとか、日本でいうと(後期の)宮台真司氏とか中島岳志氏がいってることとそう遠くない。

保守思想は、単なる「非合理」への耽溺「合理的思考の否定」ではありません。保守が重要視するのは、「合理的に考え抜いた末、合理には限界があるという認識にいたること」です。
(『日本思想という病』の中島岳志パート p.78)

日本思想という病(SYNODOS READINGS)

日本思想という病(SYNODOS READINGS)

じっさい『日本思想という病』の中島岳志パートの「自生的秩序」という節でハイエクが紹介されているのは興味深い。しかし、そこまでは認識を共有しつつも、コミュニタリアンや中島・宮台系の保守は不完全な人間が構成する市場の機能の絶対視を批判し、ハイエクとは分かれることになる。



1945年に行われた討論の中でのハイエクへの質問はまさに聞きたかったことが聞かれていて大変参考になった。「設計主義」とか「計画」っていうけど、一体どこまでなのよ?という人はここを読めばいいんじゃないかな。

Q.あなたが攻撃しない種類の計画について具体的に列挙していただけますか?

Q.TVA(テネシー渓谷開発計画)についてはどうですか?

Q.「計画」の語であなたは何を考えていますか?

Q.最低賃金のようなものは許容可能でしょうか?

……などなど。
これらの質問に対するハイエクの回答について気になった人はぜひ本書を読んで確認していただきたいが、少なくともハイエクは「自分はアナーキストではない」とは言ってる。今でいうとベーシック・インカムなんかに近いのかなあ。

あなたがたは、依然として古い論争について語っています――国家は活動すべきかまったく活動すべきでないか――。私の本(『隷従への道』)で払った努力の全体は、この古いばかげているとともに曖昧な観念を新しい区別と取り替えるためのものでした。私は、ある種の国家活動が極めて危険であることに気づいたのです。そのための私の努力の全体は正当な活動と不当な活動とを区別することに向けられました。私は以下のように言うことでこの区別を行おうと試みました。すなわち、政府が競争のために計画する場合や、競争がその仕事をすることができない場所に踏み込む限りは問題はないが、他のすべての形態の政府活動は大いに危険である、というものです。(p.151)

ハイエクは不完全な合理性を持つ人間には小さな計画は出来ても大きな、長期的な計画はできないとしてて、それが「設計主義」批判と密接に結びついている。そこをケインズに「計画が効率であることもまったくありうるのです」って突っ込まれてるけど、ここに関しては、現代では「市場内のプレイヤー」が広範囲で長期的な計画を立てることもあるのではないか、とひるがえってハイエクに問うてみたい気もする。

ハイエク思想をいじるとしたら、ハイエクの哲学観はポパー期で止まってるようで、ポパーはもう過去の人なので、そこは最近の哲学者を使ってアップデートしてもいいんではないか、とか、人間モデルに対して言ってることは「長期的な計画を立てられるほど賢くない」ぐらいしか見受けられないので、行為者のモデルをもっと精緻化できるかも、とか。

まあハイエクゲーム理論とか数理的アプローチに懐疑的だったので、生きてたら反対されるかもしらんけどハーバート・ギンタスがそれっぽいことやってるのかな。参考までに。

ゲーム理論による社会科学の統合 (叢書 制度を考える)

ゲーム理論による社会科学の統合 (叢書 制度を考える)


ハイエク、ハイエクを語る

ハイエク、ハイエクを語る

『国際政治哲学』

これは良書ですねぃ。扱ってる範囲は広いし文献案内も充実してる。
17ページにわたる力のこもった「はじめに」を読むだけでも勉強になる。
その「はじめに」で「各章は内容的に独立しており、関心のある章から拾い読みしていくという読み方も可能」とあるので自分はカントやヒューム、ヘーゲルやシュミットも登場する第一章の国際秩序観の変容、後期ジョン・ロールズ(『万民の法』の頃)の解説に重点を置いた第二章、近代日本の国際政治論を扱った第七章などから読んだ。

アダム・スミスモンテスキューと並べられる哲学者としてのヒュームやカントって久しぶりに読んだ気がする。

本書の成立事情は、司会に川本隆史さん、報告者に伊勢田哲治さんといった布陣で開催された日本イギリス哲学会研究大会のシンポジウムで、フロアとの質疑応答がうまく噛み合わず、討論者として参加していた本書の編者が政治哲学の語彙や概念装置が共有されていないことを痛感し、言葉を共有するための本を作ろうと思ったことというのもあるそうですよ。

これですね↓
日本イギリス哲学会 第29回総会・研究大会プログラム・報告要旨
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsbp/29kobe/29kobe.html

なんだか本によって記事の長短が偏ってますが、短いから軽視ということではありません。

国際政治哲学 (Nakanishiya Companions to Social Science)

国際政治哲学 (Nakanishiya Companions to Social Science)