無題

最近新書を出した戸田山さんの立場についてじゃっかんのフォロー

戸田山の立場
1.「物質的世界のしくみがどうなっているか」については経験的探求を優れた手段とみなす
2.科学的考慮を超えた、経済的・社会的・倫理的考慮が入り込んでくる問題に対して科学・技術の専門家だけには任せてはいけないと考える


以下は科学的実在論論争の往復書簡で科学的合理性の優位性を強調する戸田山さんに対して伊勢田哲治さんが異論を呈するところから。

伊勢田さんによる第4信(RATIO6号 p.312)

今回のお返事には長年科学技術社会論STS)などの研究を戸田山さんと一緒にやってきた者として正直ちょっと驚いています。戸田山さんは科学的合理性以外の合理性は認めないのですか?市民と科学者の双方向コミュニケーションに基づいてリスクの見積もりや科学技術の政策決定をしましょう、といったSTSの基本的な考え方は、科学的合理性の他に社会的な合理性とでも呼ぶべきものが存在していて、それもまた社会的意志決定においては尊重されるべきだということを前提にしています。わたしはそれと同じような意味で、哲学者と科学者の双方向コミュニケーションというのも成り立つはずだと考えています。

戸田山さんによる第5信(RATIO6号 p.320-321)

私が伊勢田さんより科学主義的傾向が強いという点は認めますが、私の考えは「科学的合理性以外の合理性は認めない」というものではありません。(…)というわけで、科学技術社会論にもコミットしてきたはずの戸田山が何を言い出す、と言われても、ちょっと、困ったな、と思いました。科学技術をめぐる政策決定、より広く言えば、科学技術という暴走したらちょっと怖いパワフルな存在をどのように社会的にコントロールするか、についての議論は、科学者の認識論的合理性よりも、もっと広い合理性基準にもとづいて行わなくてはならないのは明らかです。(…)こうした問題を解決するには、市民と科学者の双方向コミュニケーションと、より広い「社会的合理性」に依拠する他はありません。なぜなら、こうした問題は科学者の「認識論的」合理性の範囲外だからです。そして、社会的合理性には、価値の多元性を認める、ということが含まれるべきだとも思います。

同じような話を『「科学的思考」のレッスン』の後半でもしていたと思います。

あと(分析系・特に科学哲学の)哲学者の方々は哲学という言葉を一般の方より狭く使う分(概念分析とか思考実験とか。それだけじゃないけど)、科学という言葉を一般の方よりも広く使う、というズレも過小評価できないポイントだと思いますね。

といったようなことをわかってればそれほど極端な立場ではないと思えてくるんじゃないかな(たぶん)。

哲学入門 (ちくま新書)

哲学入門 (ちくま新書)

ラチオ06号

ラチオ06号

ダニエル・デネット『「志向姿勢」の哲学』

主に英語圏の心の哲学などの分野で、素朴心理学(=解釈理論)ってのがあって、これ、どうも「古代から人々が実際に使っている」とか、「いや分析哲学で形成された哲学理論だ」とか見解が分かれているようなのですが、ここでは信念体系の整合性や合理性を中核とする「信念欲求心理学」を指します*1

で、その信念欲求心理学をめぐる百家争鳴ケンケンガクガクな状況に、ある程度通じてる人には本書はかなり面白く読めます(素朴心理学って何ですかという人にはすすめません)。

本書の邦訳がでたのが1996年(17年前)なワケですが、その頃はスティッチもドレツキもミリカンもチャーニアクも翻訳されておらず、フォーダーやポール・チャーチランドがかろうじて翻訳されていたぐらいなので*2、「信念欲求心理学がこの先生キノコるには」的な議論を英語で読まれていた方以外の読者はそーとー読むのに苦労なさったのではないかと推測します。
というのも本書ではスティッチやミリカンやチャーニアクやチャーチランド夫妻の名前がガンガン出てくるからです。

でも今はスティッチもドレツキもミリカンもチャーニアクも重要著作が日本語で読めますから、今こそ日本で本書が再評価されてもいいのかなという気がいたします。

↓こういうの

断片化する理性―認識論的プラグマティズム (双書現代哲学)

断片化する理性―認識論的プラグマティズム (双書現代哲学)

最小合理性 (双書現代哲学7)

最小合理性 (双書現代哲学7)

本書でのデネットの立場のポイントは次のとおり

1.信念や欲求の基盤となる情報蓄積のための「脳の核要素」というものについてはそれが何であれ厳格な実在論


2.情報蓄積のための「脳の核要素」がいったん個別化された文的性格を持つ「信念」の実在については懐疑的


3.我々は結論に飛びついたり論理的に無関係な状況の特質に惑わされたりすることがよくあるが、信念や欲求は有効な近似化にすぎないのであって体系的に精密化しようと思っても無理だということさえ飲み込んでいれば有効な限りで有効であり、認知科学のようなサブパーソナル心理学と両立可能


2で「文的性格を持つ信念」の実在については否定してるのでこの点でデネットはフォーダーと別れます。反実在論といっても色々あるわけですがここでデネットは「信念の道具主義を取るわけではない、いわば割引いた真理だ」と書いています。明示的に特定の○○主義をとっているとは書いてないのですが、内容的にはイアン・ハッキングやナンシー・カートライトの支持する対象実在論に近いような。
デネットは、人間は巧みに言語を扱うことができ、紙に文章を書いては見て、書いては見て、といったことができる、言語的相互反応を行うことができるという人間のまさにその能力が信念体系の整合性や合理性の幻想を生む、といった表現をしています。

3は消去主義はとらないということなのでこの点で「信念欲求心理学の消去主義者」であるチャーチランド夫妻とは別れます。デネットはチャーニアクに従い、伝統的な合理性をいじることが必要と考えます。ですが「最小合理性」は言いすぎだとも考えます。この点でチャーニアクと若干距離をとります。
合理性ないよ派の人は「人間がそんなに合理的だったらチェスが成り立たない」というが、ルールを覚えればチェスの中盤、30ないし40余りの指し手が5つほどの有力候補の順不同の短いリストに切り詰められるというのは驚くべき予測の利点だとデネットは考えます。


原著が1987年なんですが内容は今でも通用しそうなほどで、かなりの部分同意できます。
最近の、概念のプロトタイプ理論なんかとも相性がよさそうです。

最近では哲学内の合理性の議論も、言語学からのアナロジーで能力と運用をわける議論など発展していたり(詳しくはEdward Steinの"Without Good Reason"など)、サブパーソナル心理学の実験も盛んに行われているので、そういった知見を援用してアップデートできるかもしれません。

「志向姿勢」の哲学―人は人の行動を読めるのか?

「志向姿勢」の哲学―人は人の行動を読めるのか?

*1:信念欲求心理学という呼び方は原塑先生に従いました。http://phsc.jp/dat/rsm/20060618a8.pdf

*2:雑誌とかでは翻訳されてたかも。

ドミニック・オフレ『評伝アレクサンドル・コジェーヴ―哲学、国家、歴史の終焉』

フランスのヘーゲル受容に興味があったので読んでみまつた。

著者のドミニック・オフレは1958年生まれの精神分析家で、本書の原典はパリ人文社会科学アカデミーのジラルド賞というのを受賞しているのだそう。
8925円673ページの大著で(おれ新品で買った)、前提知識として大陸哲学系の議論と20世紀前半の国際政治史についてある程度通じてないと読み通すのはきついかな。

↓フランスでもあまり読まれてないんだろうか。
http://www.amazon.fr/dp/2246398711

1933年から6年間にわたるパリの高等研究院でのコジェーヴによる「伝説の」ヘーゲル講義にはバタイユクロソウスキージャック・ラカンメルロ=ポンティレーモン・クノーハンナ・アーレント岡本太郎といったメンバーが受講生として名を連ねており、フランス現代思想の源流のひとつと言われたりしている。

第二次世界大戦後)「現代におけるもっとも偉大な哲学者」バタイユ

ラカンヘーゲルについて述べていることでコジェーヴから得られたものでないものは何ひとつ存在しない」エリザベート・ルディネスコ

「一世代全体にまったく途方もない知的支配」ロジェ・カイヨワ

ヘーゲルの名すら知られていなかった時代にフランスに弁証法を紹介した*1サルトル

アーレントコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』をあらゆるヘーゲル研究の基礎とみなした」E・ヤング=ブルーエル

コジェーヴの死の数日後にヴァンヴの彼の自宅に闖入したラカンは、慌てふためきながら遺稿を掻きわけ、何物かを探しまわった。(…)遺稿を整理してみると、『ヘーゲルフロイト 解釈的対比の試み』を主題とするコジェーヴのテクストは数ページしか存在していなかったことが確認できた。そうとあれば、ラカンがヴァンヴへ行ったのは――エリザベート・ルディネスコが示唆するように――ただ「コジェーヴ自身の手になる注の書き記された『精神現象学』を一冊手に入れる」ためではなかったのか、とすら推測できよう。(pp.6-7)

ルディネスコはコジェーヴラカンにおよぼした影響を強調しており、これはジャック=アラン・ミレールも受け入れているようだ。

コジェーヴの提起した主題がラカンの基本図式形成におよぼした影響には目をみはるものがあり、(…)欲望の弁証法、および支配者と隷属者との弁証法、この二つの弁証法ラカンが現実的なもの、想像上のもの、象徴的なものという三つの次元を形成するときに本質的な役割を演じてもいる。(p.542)



コジェーヴは1902年モスクワで大ブルジョア階級に属する家に生まれ、青年期までロシアエリート教養層の特権的な教育を受ける。
1919年にモスクワ大学に進学しようとしたところ、ロシア革命直後の新大学政策で望むように勉学にいそしむことが困難となり西欧へ亡命することに決める。ちなみに本人は共産主義者を自称し、1950年頃までスターリンを崇拝している。

若い頃から東洋思想に関心を持ち、1920年にはキリスト教倫理と仏教倫理の比較分析なんてこともやっている。そのためかハイデルベルクでは東洋思想に精通していたヤスパースに師事、その後ベルリンに向かうが、ベルリンではリア充ライフというか欲望のおもむくままに浮薄で快楽に耽る生活を送っていたそうだ。この人こういうプレイボーイなエピソード多い。

思いがけず財産の一部を取りもどすことができ、それによって亡命の理由自体を隠せるようになっていた。コジェーヴは結果として、にわかブルジョアになりすまし、金銭の力を味わうことに決めたのである。(p.184)

1926年にはフランスに移り住み、著名な科学史家アレクサンドル・コイレの弟の妻であるセシル・シュタークを寝取って結婚する(それ以来コイレとは親しくなる。←兄としてその反応おかしいだろ。。)。
パリではコスモポリタン的大ブルジョアのような暮らしぶりで、ヘーゲル哲学のほか数学や物理学の勉強を始めるが、これは科学史家でありつつヘーゲル研究者でもあったアレクサンドル・コイレの影響と思われる。1933年には『古典物理学と現代物理学における決定論の概念』なんて論文も書いている。

コジェーヴはコイレのヘーゲル講義に規則的に出席していたが、やがてコイレがカイロ大学で連続講義をおこなわなければならなくなった時、コジェーヴに自分の仕事を継ぐよう提案する。「伝説の講義」はこうして始まった。当時コジェーヴは31歳で、一夏の間準備をしただけで、コジェーヴより年長の者も多い聴講者の前に立たなければならなくなった。彼は自分が成功するか否かがこの聴講者にかかっていることを自覚する。本書ではこの講義中のコジェーヴの心境が詳述される。

彼は自分の真のヘーゲル註解が自分自身には信じがたいものであるということを注意深く、故意に隠した。(…)コジェーヴは、大胆にも、実際には信じがたいと判断したことを自分自身にとって絶対的に真実のものとして押し通した。そう押し通す過程で彼は持ち前のアイロニーや戯れの精神や舞台効果をねらった演技を縦横に発揮したのである。コジェーヴは1939年にセミナーが終わるまでこの偽装を押し通すことができた。(p.343)

ラプージュとの対談で本人はこうもいってる。

実を言うと、私もまた最初それは空言だと思った。だが、後でよく考えてみて、卓抜な考えだということが分かった。ただ、ヘーゲルは百五十年ほど間違っていた。歴史の終焉をもたらした者は、ナポレオンではなく、スターリンだった。」(p.351)

トラン・デュック・タオに送った書簡では

私には聴講者の精神に衝撃をあたえようという意図があったので、講義は本質的にプロパガンダの性格をもった。支配者と隷属者との弁証法の役割を意識的に強調したのは、そのためである。」(p.362)

セミナー後、1945年コジェーヴは国民経済省へ入省。ヨーロッパ政治経済圏の統合や開発途上国のために奔走する。
なぜなら「歴史が終焉」した後は哲学者は活動家となり国家の高級官僚として行動しながら君主に助言しなければならぬと考えていたから。
1960年代はGATT関税および貿易に関する一般協定)や国連貿易開発会議を舞台に活動を繰り広げる。

実践に移ったコジェーヴはこの確信のなかでいまだ突きつめていなかった部分を利用して、共産主義の目指すものは他ならぬ資本主義的な消費社会であると主張することになる。(アメリカ合衆国ソ連共産主義が究極段階に到達した姿であり、ロシア人はいまだ貧困を脱却できぬアメリカ人として表現される)(p.487)

常識的に考えて何かが混乱してるとしか思えないが、コジェーヴは(車の)フォード的な資本主義を理想として「フォードは二十世紀において只一人の優れた『正統』マルクス主義者であった(p.489)」と語っていたこともあった。

するとコジェーヴリバタリアニズムということばを知らないリバタリアンだったのか?なんて考えが浮かんでくる。
否。「純粋な自由主義は時代錯誤」と語っているし、また可能な限り関税は撤廃するべきだと考えていたが貧しい国には適用できないとも考えていた。

ヘーゲル講義とは文脈が異なるが1955年にはコジェーヴベンヤミンシャンタル・ムフあたりの政治思想にも影響を与えたカール・シュミットとも往復書簡をしており、シュミットは「歴史の終焉」について異議を唱えつつも、「国家性の時代の終わり」については同意したという。

コジェーヴの「歴史の終焉」の議論の影響は海を越え(分析哲学の流れとは別に)現代のアメリカや日本の思想・哲学にも及んでおり、市場原理主義を肯定するために援用されたりする(彼らには例えばケインジアン的な知についてどう思うかちょっと聞いてみたいところ)*2

このように、戦後フランス思想に絶大な影響をもったコジェーヴであるが、彼の死後、70年代以降「コジェーヴヘーゲル」を『精神現象学』の文脈を離れた「俗流ヘーゲル主義」として批判する流れも生まれている。ラバリエールとジャルクチィックといったヘーゲル研究者はその代表で、現代フランスのヘーゲル主義の過誤を精力的に指摘している*3

さて翻って日本の事情をみるにあまり他所事だとは思えない。大陸系思想の伝統の流れを汲む日本でこそ本書は一際価値を持つといえるのかもしれぬ。
コジェーヴの交流・影響の広汎さについて本書以外では以下で垣間見ることが出来るよヽ(・∀・)ノ


・合澤清/滝口清栄 編『ヘーゲル 現代思想の起点』
・岡本裕一朗『ヘーゲル現代思想の臨界 ポストモダンのフクロウたち』
・ヴァンサン・デコンブ『知の最前線―現代フランスの哲学』
・ヤン・ヴェルナー・ミューラー『カール・シュミットの「危険な精神」 戦後ヨーロッパ思想への遺産』
田中純『政治の美学―権力と表象』
・大竹弘二『正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序』
・レーモン・アロン『回想録』1・2
・J・P・サルトル『方法の問題』
・港道隆『現代思想の冒険者たち レヴィナス 法-外な思想』
・エリザベス・ヤング=ブルーエル『ハンナ・アーレント伝』
ジャック・デリダマルクスの亡霊』

評伝アレクサンドル・コジェーヴ―哲学、国家、歴史の終焉

評伝アレクサンドル・コジェーヴ―哲学、国家、歴史の終焉

*1:1860年代にアウグスト・ヴェラがヘーゲルの『美学』『エンチュクロペディー』を仏訳しているが訳業が不十分だったりカント回帰やカトリシズムの潮流の中1930年頃までヘーゲル哲学はフランスのアカデミズムから消えていたとのこと。合澤/滝口『ヘーゲル 現代思想の起点』pp.82-83

*2:ジャック・デリダは『マルクスの亡霊』でそうした論者の一人フランシス・フクヤマを批判している。

*3:合澤/滝口『ヘーゲル 現代思想の起点』pp.87-90

I.ニース+A.M.スープレナント『記憶の原理』


はじめにいっとくと、「テストに合格する」といった自己啓発(?)みたいなの期待するとおそらく肩透かしを食うので、そういうのを求めてる方は他を当たるべし。本書は一般向けの逸話やエピソードは控えめで、そのぶんデータの吟味、対立する知見の間の矛盾の解消、他の原理との比較や妥当性の検証に重点を置いている。

著名な記憶研究者タルヴィングは「記憶全体に当てはまるような一般的な原理など存在しない」と主張しているが、その理由は記憶は数多くの異なるシステムから構成されており、それぞれのシステムはそれぞれの異なる原理のもとで働いているから、というものだ。
また、同じく記憶研究の第一人者であるグラフ(P.Graf)は複雑な記憶を研究するためには「問題を細かく分け、それをひとつずつ克服する」という"分割統治"が有効だと述べている。事実、これまでの記憶研究はこのような方法で推し進められてきたという。

しかし本書ではそのような「複数記憶システム説」の立場をとらない。少数の原理で現象を説明することが科学の目標であると主張し、複数システムや処理説を統合して普遍的な人間の記憶における原理を7つ提案する*1。そしてそれらは少なくとも現時点では実験結果と矛盾なく説明できていると思われる。

第2章で著者は記憶に対する代表的な捉え方である「システム説」と「処理説」の批判的吟味を行う。「ワーキングメモリ」や「長期記憶」、「エピソード記憶」といったことばを目にしたことのある方も多いだろう。システム説ではそれらの記憶システムは解剖学的にも進化的にも、互いに異なる構造を持つものとされている。

実際、システム説は「ごく短期間だけは新しい情報を記憶できるにも関わらず、長期にわたって記憶を保持することはできない」という健忘症患者のデータに対する説明に最大の強みを持つ。この症状は別々の記憶システムを仮定しなければ説明することが難しい。
しかし別々の記憶システムを仮定しなくても健忘症者のデータは説明できるという反論も現れつつあるという。Della Salaら*2は「干渉が最小限になるような条件(静かな暗い部屋でゆったり過ごす)のもとでは、健忘症者のエピソード記憶の成績は健常統制群とほぼ同程度になる」ことを実験で示した。ただ個人差は大きく、干渉が少ない条件でも成績の向上が見られない健忘症者も何人かいたそうだが、今後の検証に有望な余地があることを示したといえるだろう。

著者は短期記憶と長期記憶がいくつかの点で異なっていることを認めるのに吝かではないと断った上で、それらは本質的に異なったものなのか?と疑問に付し、「記憶は脳のどこにあるのか」と問うことは「走ることは身体のどこにあるのか」と問うことと同じであり、確かに身体のある部分は(脚!)は走ることにとってかなり重要だが最終的には多くの身体部位や筋肉群が複雑に協働しあわなければ走るという行為は成り立たないと比喩を使って述べ、そして記憶システムの違いは「走ること」と「歩くこと」の違いのようなものだと主張する。歩く(例えば短期記憶)ときにはまったく妨害にならなかったわずかなことが、走る(例えば長期記憶)ときには妨害になりうるのだ。

第3章以降著者は7つの原理をひとつずつ検討してゆく。「記憶は単なる再現ではなく本質的に再構成的なもの」などその過程に出てくるいくつかの知見は、日常の経験から(実験系の心理学が嫌いな人がよく言うような口調で)「そんなこと分かってたよ」てな事もあるし、「時間の経過と記憶の成績は無関係」など目から鱗なものもあった。

面白いと感じた実験をひとつ紹介しよう。McWeenyらは固有名詞についての巧妙な実験を行い「この男性の職業はbaker(パン屋)で…」と「この男性の名前はbakerで…」のように、ある項目が職業として与えられた場合と、名前として与えられた場合で、その項目の再生成績を比較した。そして固有名のほうが一般的な名詞を再生するよりも難しいということを実験的に裏付けた*3。これは原理7の「特定性」が若年成年に当てはまる例の一つといえるだろう。

しかし本書の価値はなんといっても原理を探ろうとする姿勢にあるのかもしれない。著者は原理を探ろうとすることには、次の2つの利点があると述べる。第一に、研究者たちの関心を、個々の理論や具体的な効果、あるいは特定の実験課題を仔細に検討することよりも、研究領域全体の知見を振り返って吟味しようとすることに向かわせる点。第二に一般的な原理を打ち立てることによりその原理を反証しようとする研究を促すことである。
そうして著者たちは今までに蓄積されてきた実験研究を統一的に捉えるために推理の網を絞り込んでいくのである。

また、本書では触れられていなかったが、認識論や語用論にも応用できるかもしれない。語用論のたとえば関連性理論の本を読むと*4これらはサブパーソナルに迅速に行われますよ、認知効果の計算上努力が最小になるような順序をたどりますよ、と少し触れられてるだけで概念形成の仕組みや並列分散表象モデルをとった場合両立可能かといったことには触れられてないので、例えば固有名についての記憶研究が、関連性理論でいうところの「飽和」や「指示対象付与」とどう関わってくるのかなど、こういう『記憶の原理』のような本を読むと、どうしても認識論とか語用論との関係(組み込めるかどうかとか)が気になってしまう。

本書は"分割統治"が主流といわれる現在の記憶研究の中で、全体を俯瞰し、蓄積されてきた様々なデータをまとめあげ、(今のところ)それらのデータと矛盾なく記憶についての原理を確立することに成功している。あまり一般向けとはいえないが様々な研究者が興味深く読める一冊ではないかと。

記憶の原理

記憶の原理

*1:原理って何みたいな話は第1章に丁寧に書かれてる。

*2:Della Sala,Cowan,and Perini(2005)"Just lying there,remembering"memory,14,435-440

*3:McWeeny,Young,Hey,and Ellis(1987) "Putting names to faces"British Journal of Psychology 78,143-149

*4:たとえば今井、西山『ことばの意味とはなんだろう』2012

アレックス・ローゼンバーグ『社会科学の哲学』

Alexander Rosenberg "Philosophy of Social Science 4th edition"

科学哲学では線引き問題とか理論的対象の実在論争の他に、個別科学の哲学といって「生物学の哲学」とか「心理学の哲学」なんて分野がある。本書は「社会科学の哲学」のイントロダクション。

初期の科学哲学というのは主に理論物理学を分析対象にしていて科学という営みの性質を見落としていたという経緯がある。今はそれほどでもなくなったけれどまだ「自然科学」を分析対象にした科学哲学に偏っていて、そんな中科学哲学者が社会科学に目を向けるようになるのはいい傾向だと思う。

というのも社会科学界隈ってどうも「エヴィデンスがねぇぞゴルァ」みたいなツッコミをよく見かけて、そういうツッコミが有効な局面もあるとは思いますけれども、それとは別に、たとえば議論を再構成して、整合性の検討をしたり、使われている概念の吟味をしたり、非明示的な含意を取り出したり…という手の加え方もあると思うのですよね。

もくじ

1社会科学の哲学とは何か
2方法論的な分かれ目:自然主義 vs 解釈
3人間の行動の説明
4志向性と内包性(intentionality and intensionality)
5行動科学における行動主義
6合理的選択理論の諸問題
社会心理学と社会の構築
8哲学的人類学
社会学と心理学におけるホーリズムと反還元主義
10リサーチプログラムとしての機能主義
11社会生物学か 標準社会科学モデルか
12文化的進化の諸理論
13社会調査における研究倫理
14人間科学における事実と価値
15社会科学と 残り続ける哲学的な問い

2〜12章は、人の行動の説明の自然主義と志向的語彙(信念とか欲求など)をつかった説明の対立、方法論的個人主義や、宗教や結婚といった「社会的事実」に訴えるデュルケームの機能主義あるいはホーリズムジョン・サールの議論、はてはダーウィン主義社会科学まで、社会科学の諸説の長所や限界を解説し、欠点を克服するために彼らは何を示さねばならないか、といったことが述べられる。まあ、それほどテクニカルな議論が扱われているわけではないので、ごりごりの社会科学者が読んで物足りなく思うことはあるかもしれない。とはいえ社会科学に通じていない読者はその歴史を鳥瞰することができる。8章では批評理論やフーコーブルデューあたりも扱っていて、英語圏の哲学者なのに大陸系の議論によく通じていることにちょっと愕かされる。

13章〜15章は、人(動物)を対象にした実験に関わる研究倫理的問題や社会科学が倫理学と密接な関係にあることが言及される。たとえばローゼンバーグはアマルティア・センによる、経済学における「規範/記述」が互いに独立だとする前提への批判的検討に触れ、「モラルコミットメントが社会科学の中心的な特徴なら、なぜこんなにも社会科学と自然科学が異なるのかの説明にもなろう」と述べる*1

本章では、社会科学者が社会科学を追及する上で、認識論、形而上学倫理学といった哲学的問いに与することは避けられないという主張を吟味する。(…)これらの問いは社会科学のdisciplinesが決着することのできない問いではあるが、しかしその回答は社会調査の方向性と展望に相違を生むような回答である。(p293)

15章の最後では、ローゼンバーグが本書の狙いについて、ウェーバーデュルケームディルタイとコント、ミルとマルクスヘーゲルホッブスといった学者の名前をあげ、社会科学の論争はほとんど常に伝統的な論争のニューバージョンであるということを示すこと、そして社会科学の問題がいかに認識論や倫理学といった哲学の問題と関わりがあるかを示すことにあった、と述べている。

読者によっては「〇〇がでてこねえぞゴルァ」とか細かいところで幾多あると思うけど、現代科学哲学のビッグネームの著書であることだし、日本語で読める社会科学の哲学の本がほとんど出てない今、平易に書かれていて読みやすいのでこの分野に興味持ってる方にはかなりおすすめできる。

Philosophy of Social Science

Philosophy of Social Science

*1:それ自体で価値論的ではないような、経験的探求によって得られた記述というのを否定しているわけではない

生きてます的な

温泉に行くも人大杉。屋外の日陰でひぐらしの鳴き声に囲まれながら本読んだりしてだらだら過ごす。
空模様の縫い目をたどって石畳を駆け抜けると夏は通り雨と一緒に連れ立って行ってしまうのです。



Edouard Machery "Concepts are Not a Natural Kind." Philosophy of Science, 72, 444-467
[pdf]

ジャンルは「心理学の哲学」*1
すべてではないにせよ多くの心理学者は概念を自然種*2だと思っているようだけれど(Macheryはこの見解を「自然種想定」と呼ぶ)、推論とかアナロジーとかそういう高次認知過程を科学するのであれば、そういう「自然種想定」は誤った想定だよ、というのがMacheryの主張。

概念というと(分析)哲学者と心理学者、一般の方で使われ方が違うと思うけど、この論文では心理学とか認知科学の学術語としての「概念」の話が中心であって、分析哲学(特に認識論)でいうところの「概念分析」はあまり関係ない。ので概念分析における概念について関心がある人が読んでも肩透かし食らうかも……。

Macheryの代案は「概念」をより基礎的なPrototypes、theories、exemplarsに分割して高次認知過程を考えようぜ、というもの。
「おばあちゃんスパイ」のような混成概念も、「おばあちゃん」や「スパイ」のプロトタイプの属性のいくつかが長期記憶から引き出されて組み合わされると考える。混成概念の話はセドリック・ブックスの「ホモ・コンビナンス」を想起したな。この二人が互いに参照したら面白いんじゃないかしら。

さて、そうなると(分析)哲学での「概念」との関係が気になってくるが、それは”Doing without Concept”という本の第2章「哲学における概念」で少し扱ってる。

Doing Without Concepts

Doing Without Concepts

この本まだ興味あるところ拾い読みしてるくらいだけど(自分英語ヘタレ)、第2章の第2節「哲学における概念 VS 心理学における概念」が面白い感じ。心理学と哲学では、概念を探求する目的が違ってて両者を架橋する議論がいくつか生まれているそうな。「概念」は分野間、分野内でも見解が分かれてごちゃごちゃしていて、そういった心理学的・哲学的な文脈・動向に通じていないと読み手は混乱するだろう、というのをよく分かっていて心を砕いて丁寧に説明なさっているなあ、とそこは大変好印象。

この本裏表紙でスティーブン・スティッチ先生がお褒めの言葉を寄せている。
Machery has written a bold, original and important book. If he's right, and I suspect that he is, then both philosophers and psychologists who write about concepts will have to do some quite fundamental rethinking.

*1:「科学は合理的に進歩するか」とか線引き問題といった科学全般にかかわる問題を扱う科学哲学(general philosophy of science)とは別に、最近では、「生物学の哲学」とか「社会科学の哲学」とか「化学の哲学」といった、科学の個別領域を扱う「個別科学の哲学」(Philosophy of particular sciences)が盛ん。

*2:ごく簡単に説明すると「権利」や「正義」のようにこちら側の都合で分類したのではなく、水素とか銅のようにあちら側ですでに切れ目が入っていたようなグループが自然種。

分析哲学と法哲学・政治哲学の関係とか

……みたいなことに今ちょっと興味あります。

川本せんせいの『ロールズ』なんか読むとけっこう分析哲学の有名人がポンポン登場するんDAYONE。
たとえば冒頭の架空インタビューでロールズにこんな発言させてるね。

ところで今のラインアップ(『現代思想の冒険者たち』)で私に直接影響を与えた人物は、クワインだけです。彼一流のプラグマティックなホーリズム、いわゆる「知のネットワーク理論」から啓発を受けながら、私は「反照的均衡」という倫理学方法論をみがいてきました。それとウィトゲンシュタイン。哲学修行時代にマルコム先生から手ほどきを受けた私にとって、彼はいわば師匠の師匠にあたります。また、「二つのルール概念」という論文もウィトゲンシュタインの『哲学探究』との出会い抜きには書けなかった作品です。

ロールズ (「現代思想の冒険者たち」Select)

ロールズ (「現代思想の冒険者たち」Select)

ロールズは院時代にノーマン・マルコム、マックス・ブラックに師事してるけど、ウィトの弟子の弟子の位置にもうロールズきちゃうのか。ほおお。

ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出 (平凡社ライブラリー (266))

ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出 (平凡社ライブラリー (266))

他にもロールズは1952年から1年間オックスフォード大(ライルやオースティンがいた頃!)に留学して日常言語学派を参与観察している。
そこでH.L.A.ハートの講義も聴いてるのだそう。そういやハートも日常言語学派直系の法哲学者か。
トゥールミン『倫理における理性の位置の検討』の書評も書いてるし日常言語学派との関係も見逃せないな。

さらに1960年科学史と哲学を教えていたMIT時代にはパトナムやチョムスキーと交流しているとあるな。
細かいとこだとロールズの「エクスプリケーション」は元々はカルナップの用語だったものを倫理学方法論に転用したものだとか。

で、『正義論』からノージックやセンやサンデルやらヌスバウムといった流れが出てくるわけですね。てかノージックも師匠が科学哲学者カール・ヘンペルだし、分析系の認識論や形而上学みたいなことやってるしな。

日本だと分析哲学法哲学〜政治哲学は別モノってことになってる印象なんですが、これら↓は絡めて論じている。

伊藤克彦せんせいによる、クワインホーリズムロールズ、ドゥオーキンへの影響を論じたもの。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007620101

これまでの日本の法哲学ではロールズやドゥオーキンの理論を単独で取り上げるだけで、その背後に潜む共通の問題を考察し指摘する声は少なく、またドゥオーキンやロールズへのホーリズムの影響はしばしば指摘されつつも本格的に検討した論文は邦語文献ではほとんどないと思われるため、その点で本稿の意義はあると考える。

そしてこちらは井上達夫せんせいがクワインの「根源的翻訳」やデイヴィドソンの「慈善の原理」に言及しているもの(pdf)。
http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200705/0705_7075.pdf


それにしても分析哲学の影響を組み込んだ法哲学や政治哲学の一般向け解説が日本であまり見かけないのはあらためて謎だなあと思う(もちろん私が見逃している可能性大である)。でもまあそれちゃんとやろうとしたら大変そうではあるな。