斎藤環氏、文春にてモギケンを語るの巻
先週の週刊文春で斎藤環さんが、2年ほど前にモギケン(茂木健一郎)さんとの往復書簡を試みて、承諾してくれたにもかかわらず第一信を出して以来モギケンさんから返事が来なかったことについて書いている。内容はモギケンさんの「脳科学」について。モギケンさんといえば「脳はこうだ、だから社会がこうなのだ」みたいな科学者にしてはかなり突飛なことを言う人で、斎藤環さんはそれに対し「現段階では脳についてそこまで分かってないし飛躍があるんじゃないか」と疑義を呈しているわけだ。ちなみに斎藤環さんは、現段階でわからないことについては、科学とは名乗らず自覚した上で「仮説の集積」を利用できるなら利用しよう、しかし可能な限りエビデンスベースドで、というバランスの取れた人だ。「お金で買えない価値がある。買えるものはマスターカードで」だ。・・・ごめん。意味不明だった。科学に対する距離感でいうと認知心理学者の下條信輔さんなんかが近い存在なんじゃないかな。
さて、僕としては、対象が複雑だったり、試し可能性のない、「はいこれです」と根拠を提出するのが困難な命題について、自然科学だと名乗らない上で仮説を立てるぐらいはOK、しかしなるべくエビデンスに基づきましょうという考えなので(「グロテスクな表現ありますシール」貼ればバイオハザードOK理論)、斎藤環さんに近い立場であるといえる。だから往復書簡が実現すれば興味深いものになっただろうにと思ったのだが・・・。しかし、個人的に思うのはモギケン許さん!ということよりモギケンさんの行く末である。おそらくこれから「モギケンはとにかくインチキ」みたいな身も蓋もないツッコミが増えてくるだろうと僕は予想する。だから斎藤環さんのような「まだ話の分かる批判者」との対話の内に活動の軌道修正しておいたほうが長期的にみてよかったんじゃないかしらん、などと思ったりする。それともモギケンさんはモギケンキャラのまま最後まで逃げ切るのだろうか。斎藤環さんは「企画のほうはもう終結してしまったけれど、いつまでも、手紙の返事をお待ちしております。涙目で。」と文章を締め括っている。そんな斎藤環さんにあみんの『待つわ』を捧げたい僕なのだった(いらん世話)。